昭和の百々越前、清水真澄さん〔952〕2005/11/23
2005年11月23日(水)晴れ!
今日は勤労感謝の日。
てな訳で、昭和初期の偉大な先人の勤労について感謝してみます。写真は、今朝の鏡川、柳原橋の少し西の北岸でございます。筆山の向こうから、まさしくお日様が昇ろうとするところ。
手前の川の中から、なにやら石のような物が直線的に並んじょりますね。これが、何度かご紹介した沈下橋の残骸。ここに、ひまわり太郎が中学生の頃まで沈下橋がありました。増水した際には川に沈む、欄干の無い橋。四万十川などで有名ですが、ここに昭和の始めに架けられた沈下橋が、日本で最初の沈下橋。当時、日本中でこんな発想をするヒトはおらず、この方式を考えた市役所の吉岡技師は、周囲を説得するのにこぢゃんと苦労します。
が、時の高知市の土木の課長は「昭和の百々越前」と呼ばれた清水真澄さん。百々越前さんは、高知城の築城奉行やった大人物ですな。清水課長は、何度も上京して建設省と掛け合い、沈下橋を実現させました。
昭和20年、高知の町は焼け野原になって終戦を迎えます。この焼け野原を復興させるのは清水さんしかおらん、ということになりまして、清水真澄さんは再び表舞台に出て参りまして、新しい都市計画に邁進、現在の、真ん中に公園(中央公園)のある、広い道路が真ん中を突き抜ける高知の町の原型をつくったのでありました。昨日、そのあたりのお話を、土佐の歴史に詳しいお方から詳しゅうに聞く事ができたので、今朝は嬉しがって書きよります。
ちなみに、清水さんのプランでは、電車通りは50m道路やったそうです。役所や議会、住民の大反対で、現在の36m幅になってしまいました。先を見通す力があるかどうかですね。