55年前の台風と浦戸湾〔8163〕2025/08/21

2025年8月21日(木)晴れ!
高知県が「台風銀座」と呼ばれてたのは、いつ頃までだったでしょうか。で、毎年、高知県に大きな台風が上陸していた時代を象徴する台風のひとつが、昭和45年、1970年8月21日に襲来した台風10号。以前にも書いたように、この台風10号は、特別に「10号台風」という固有名詞が与えられていて、僕らより上の世代では「10号台風」と言えば1970年8月21日に高知県に上陸した台風10号。今から55年前の、今日。
坂本高知市長が、テレビで、「自分の命は自分で守って欲しい」と呼びかけて「無責任ではないか」と批判されたのは、その台風のとき。今となっては当たり前の発言やけど、当時の社会では批判されたりしたんですね。
Googleで「高知市 坂本市長 台風10号 自分の命」と検索したら、AI君が上記のようなことを答えてくれます。この文章、なんか既視感がある、と思うたら、このAI解答のソースは僕でした。
10号台風では、死者・行方不明者13人。そして甚大だったのが高潮による被害。南与力町の僕の家も工場も水没し、高知の市街地は殆どが浸水。帯屋町の店舗も悉く浸水してて、台風の後、大量のゴミが悪臭を放ってあちこちに積み上げられてたのを、昨日のことのように覚えてます。
しかし、あの高潮被害で、浦戸湾の埋立計画が中止に追い込まれたのは、高知にとっては幸いだったのかも知れません。
昭和30年代、浦戸湾に「臨海工業地帯」「木材集団地」「石灰・木材の積み出し基地」「遠洋漁業基地」の設置が計画されました。今となっては「なんだそりゃ」やけど、当時はそういう時代だった。社会は行政の想定通りには変わらない、という典型的な例やね。
で、その計画に基づいて、浦戸湾の東岸、西岸に広大な埋立地をつくることが計画されました。現在の仁井田の埋立地は、その際に計画されたもの。
西岸も、あの玉島までを包含する広大な埋立地が計画されたけど、運輸省がコンピューターで計算したところ、埋め立てによる南海地震津波への影響はかなり大きい、ということが判明、かなり縮小した埋め立て計画に変更を余儀なくされたのでした。
で、縮小変更された計画でも、孕半島の南に43万平方メートルの埋立地を造成することになってました。そこに、10号台風。
浦戸湾の埋め立てが高潮被害をもたらした、という側面が否定できず、縮小計画だった43万平方メートルの埋め立ては、中止。もし10号台風がなかったら、粛々と埋め立ては進んでたのかも知れません。「臨海工業地帯」「木材集団地」「石灰・木材の積み出し基地」「遠洋漁業基地」の設置の為に、ね。
写真は、今朝、浦戸大橋の上から撮影したもの。手前が種崎半島。その向こうの右手には仁井田の埋立地。左側の、玉島とかが浮かぶ湾が膨らんだ海が埋め立てられている風景を想像すると、恐ろしい。