やなせ少年の時代の堀詰〔8048〕2025/04/28

2025年4月28日(月)薄曇り
あらためて、やなせたかし先生の自伝「アンパンマンの遺書」を読み返してます。その波乱万丈の人生が、とにかく秀逸な文章で軽妙に描かれていて、とても素敵な本。で、思い出したことがありました。そう。ドラマとは違い、お父さんが海外で客死した後、お母さんに連れられて高知へ戻るけど、その際、最初に住んだのは高知市の追手筋。お母さんと祖母と3人で、岸野医院という医者の離れを借りて暮らした、とのこと。弟の千尋は、後免の伯父さんの養子となって、先に後免町の柳瀬医院へ。
やなせ先生は、まだ4歳。ドラマでは違ったけど、柳瀬嵩少年は、そこで小学校2年生までを過ごします。通った小学校は、高知市立第三尋常小学校。そう。戦後、僕の母校、追手前小学校になる小学校だ。つまり僕は、小学校2年生までのやなせたかし先生の後輩ということになる訳だ。
先日、同学年の連中と飲んでいて、後免野田小学校出身のN君のことを羨ましがったけど、僕も厳密な意味では後輩だったのである。どうでもいいですが。
そう言えば、昭和初期の高知の市街地住宅図があったと思い、引っ張り出してきました。見てみると、残念なことに電車通りから南の住宅図。もっと北の第三尋常小学校も岸野医院も載ってません。
しかし久々に見たこの住宅図も面白いよねー。地図の隅には「会学理地知高 前校学小口ノ江市知高」とあって、高知地理学会という地図制作会社が昭和4年6月に調査した「高知市堀詰南部方面」の「現住者名図」であることが、わかります。
この写真のエリアをGoogleマップでみると、この界隈。なるほど、という感じ。高知商工会議所は今も商工会議所の商工会館で、左上、日本勧業銀行が今はみずほ銀行やけど、その他、残っている施設はあるんでしょうか。個人名は、ひょっとしたら子孫の方が住んでおられるかも知れんけど。
トーエーパーキング南側のY字路みたいになった変則交差点は、この、土佐電気の電車の引き込み線に由来するもの。みたいな話は、以前にも書きました。で、その西側にあったソプラノ小路の堀詰座、そして「タアマハル」という降神術師のことも、書いてます。なんか魅力的で、一度は通ってみたかったソプラノ小路。全部、戦争で焼けてしまったんでしょうねー。
Googleマップで見ると、ここがソプラノ小路だったのか?と思われるような南北の筋が。ストリートビューで見ると、こう。ここに、狭い路地が南北に走り、利岡さん、入交さん、浜口さん、橋田さん、浦宗さん、南部さん、山崎さん、田内さん、浜田さんが暮らし、芝居小屋や降神術師の店が並んでいた。
いかにも高知らしい苗字が居並ぶねー。それもまた、嬉しい路地。そんな時代の風景を妄想できる、昭和4年の「現住者名図」でした。