後藤象二郎の系譜〔7951〕2025/01/21
2025年1月21日(火)晴れ!
六本木の交差点から東京タワーの方へと向かうと、飯倉片町に、幾度か紹介した街、通称「スペイン村」があります。少し窪地みたいになった不思議な地形の土地に、昭和10年に建設されたモダンで洒落たアパートが今も3棟残る、素敵な場所。
その「スペイン村」への入口角に立つ、洒落た3階建ての建物。有名なイタリアンレストラン「キャンティ」。ここの常連には安部公房や三島由紀夫、鹿内信隆などといった大物も居たけど、ミッキーカーチスやレーサーの生沢徹、まだ無名だったかまやつひろしや加賀まりこ、安井かずみ、作曲家の村井邦彦などが毎晩のように出入りしていたという、伝説のイタリアンレストラン。その創業者は、川添浩史と、その奥さんの梶子。
最近、この「キャンティ物語」という本、読みました。すごいね。すごい。この川添浩史という人物と、その周辺のひとたち。
早稲田高等学院の同級生に、フジサンケイグループ議長となった鹿内信隆がいたけど、鹿内に「もし日本にキザな男がいるとしたら、川添はその筆頭だよ」と言わしめた、庶民とは全く違う、戦前の「華族」の空気を全身に纏った男。それが川添浩史だったとのこと。
その男、我らが明治の元勲、後藤象二郎の息子、後藤猛太郎の四男。そう。土佐藩上士、馬廻格の家に生まれ、板垣退助らと明治期に活躍した後藤象二郎の、実の孫。
後藤象二郎は、「龍馬伝」でも青木崇高が快演してたけど、実は金銭感覚が極めてアバウト。岩崎弥太郎に助けてもらったりもする訳やけど、とにかく人物としては破天荒だったみたい。ここにいろんな人からの評価があるけど、佐々木高行は「御維新でもなければ身の始末が付かなかったことであろう」と評している。
そんな素敵な後藤象二郎の次男(長男は夭折)が、後藤猛太郎。これまた、オランダ留学中に放蕩して多額の借金を負い、象二郎から勘当されるという経歴から始まって、南太平洋マーシャル諸島で酋長を攫ってきた説があるなど破天荒。新潟で経営した銅山は破綻し、多額の借金。最後は、日本活動フィルム(日活の前身)を設立して初代社長になったりした、後藤猛太郎。
そんな素敵な後藤猛太郎の四男が、川添浩史。浩史の母は、新橋の芸者。幼くして子のなかった川添家へ養子に入る。川添家も、土佐藩、深尾家に仕える名家であり、三菱の岩崎家とも血縁があって、養父は三菱銀行の取締役。まあ、大金持ちだ。そこで、「華族」の息子として、いわゆる「お坊ちゃん」を遥かに凌駕するような生活をそながら育ち、留学作のパリでも華やかな交流関係を築き、帰国後は高松宮の覚えめでたく、高松宮邸宅が迎賓館「光輪閣」となった際に支配人となった、川添浩史。
様々な文化事業、欧米との文化交流事業を手がけ、そして1960年4月、飯倉片町にオープンしたのが、キャンティ。
そんな素敵な川添浩史の長男が、川添象郎。
キャンティに子供の頃から出入りし、極めて遊び人だった息子が川添象郎。YMOとか松任谷由美とかを世に出したブロデューサーは、子供の頃からそんな環境で育ったのでした。昨年亡くなった川添象郎の人生もこれまた破天荒で、すさまじい。
この破天荒な系譜、たどっていけば、行き着くのは後藤象二郎。
ここは、後藤家の邸があった場所。ここが後藤家で、この向こうが乾家。後藤象二郎と板垣退助は、ご近所に住む幼馴染。そして僕が生まれ育ったのは、ここ。