加賀野井団地と三園町〔7937〕2025/01/07
2025年1月7日(火)晴れ!
弊社は、1922年5月、この地で創業しました。現在の中秦泉寺、当時の土佐郡秦村。そして、戦後まで、乳牛も飼育しておりました。僕が子供の頃にはもう牛は飼っていませんでしたが、ここにあった祖父母の家にはしょっちゅう泊まりに行っていたのでした。南与力町にあった本社工場の社宅に住んでいたので、のどかな山麓の家を気に入っていたのかも知れません。
微かな記憶では、この家から、久万川の堤防上を散歩する人の姿が見えてました。今では住宅が密集してて面影もないけど、当時は、ここから久万川までは田んぼばかり。そんな、のどかなのどかな秦泉寺。
その家と久万川の間にできた住宅街が、三園町。当時、少しづつ家が建ち始めているのがこの写真からもわかります。最新号の「秦史談」に、当時のことをよく知る地元の方が文章を寄稿されており、そこに当時の風景が描写されています。その文章によりますれば、三園町は加賀野井団地を作る際に削られた山の土砂で造成されたんだそう。いや、知りませんでした。世の中知らないことだらけ。
元々、久万川の蛇行部分と名切川の合流する界隈で、湿地帯みたいな土地だったようです。久万川の直線化工事が行われ、蛇行していた元久万川の部分には沼があった、とも。そんな土地に大量の土砂が投入されて造成され、そして三園町ができた、という訳だ。なるほど。
当時の、1966年の航空写真を見ると、加賀野井団地と三園町の造成の様子が見て取れますな。そして人口が急増し、江ノ口小学校や秦小学校がマンモス化して、一ツ橋小学校ができました。開校したのは1971年4月。僕が小学校4年生の時で、加賀野井団地や三園町の同級生は、4年次から一ツ橋小学校の生徒となったのでした。
加賀野井団地や三園町ができる前の航空写真はこれ。高解像表示でご覧ください。まだ、久万川は蛇行しており、加賀野井団地は山で、三園町は田んぼ。その風景を一変させたのが加賀野井団地と三園町。そんな歴史やけど、近年、北部環状線という道路ができ、イオンができて、またまた風景が激変。昔の面影はどこへやら。
写真を撮っているのは、この十字の場所。現在は北部環状線の、名切川の橋上。1966年の、ここ。この右側が三園町。名切川と轟神社の森だけが、当時の風景を今に伝えてくれます。