興味深すぎる谷干城別荘の石垣〔7915〕2024/12/16
2024年12月16日(月)晴れ!
一昨日、高知市の北山、三谷から山の神原生林を走りに行ってて、気付いたことがありました。そこで今朝未明、まだ真っ暗い時間帯に車で行って撮影して来たのでした。西南戦争で熊本鎮台を守り抜いた司令長官で、学習院長や農商務大臣などを歴任した谷干城さんの別荘跡。三谷集落の上部、高知の城下を見おろす素晴らしい景観の場所。矜持の人として、幾度か紹介したことのある谷干城。この別荘跡も幾度か紹介したけど、一昨日まで気付かんかったことがありました。迂闊にも。僕はいつも、迂闊だ。それは、石垣。
別荘が建っていたのは、この石垣の上。石垣をよく見てみよう。まず、コーナーから少し左へいった場所。この写真だとわかりづらいけど、明らかに算木積みになっている箇所が、あります。どういう事かと言うと、以前高知城の石垣でも見つけたけど、当初はそこが角となった石垣であったのでしょう。その後、こちらに石垣を継ぎ足した。そういうことだと思われます。算木積みは、角部分の積み方なので。
この場所、そもそも、延宝三年(1675年)に文人富永新助が居を構え、「暦景亭」と称していたと言います。この上の説明版に書かれてました。友人の谷秦山が、ここから見た風景を「三谷暦景亭ノ記」という文章に残している、とも。谷干城は谷秦山の子孫。そんな関係もあっての別荘地だったんだろうか。
ともかく、いつ積まれたのかはわからんけど、石垣の上に家が立っていた。その後、ひょっとしたら谷干城が別荘を建築するに際して、新たに石垣を積んで延長し、敷地を広げたのかも知れないね、などと思ったのでした。
思いながら延長した石垣を観察すると。すごい。道から上がっていく道になるように石が積まれ、なんと、その石垣はオーバーハングしているではないか。わかります?
石でできた階段が屋根のようになって、その下が空間になっている。こんな積み方をしたチャートの石垣って、見た事ない。かなりの技術が必要であることは、想像できます。とするとやはり明治になってから、つまり谷干城さんが別荘を建てた際に石垣を延長、その先に石垣に上がっていく小径を、石を張り出して積みようにして構築した。そんな物語が妄想できるではありませんか。
石垣ってのは、基本、頑丈に構築するという意味からオーバーハングしないように積むのがルール。そのルールをわざと犯して、石積みをオーバーハングさせて小径をつくる。いや、建築者の意図は違ってるかも知れんけど、僕にはそう見えました。
真っ暗い中、懐中電灯を持ってウォーキングする、地元三谷のおばあちゃん二人がやって来ました。で、「なんの写真を撮りゆうかと思うた」と言われてしまった。まるで不審者やけど、真っ暗くて狭い道を走ってでも撮影してきたかったのが、この石積み。石積みを見ながら、人の想いや歴史を想像するのは楽しい。楽しくないですか?