浸水する南与力町〔7909〕2024/12/10
2024年12月10日(火)晴れ
ひやいねー。高知市内、まだ氷点下にはならんけど、もう、近い。車のフロントガラスがカチばってました。
さて、今朝の高新に、なかなか興味深い記事が。1面に「昭和南海浸水 定説より広範!?」という見出しが踊り、社会面に「大川筋、与力町も浸水」と、詳細記事。城博の学芸員さんがオーテピアで見つけた「災害写真帳」で、昭和南海地震に関する新たな事実、謎が浮かび上がって来た、という内容。この写真帳、誰がいつ撮影して作成したものかは不明。しかし、戦争や地震の凄惨な光景を残す、貴重な写真群があり、貴重な史料となっておるそうです。
で、今までの行政による報告書とかでは、記事左側の地図のような浸水域が報告されており、昭和南海地震の津波、地盤沈下による浸水域は、高知駅やはりまや橋くらいまで。それより西は浸水域にはなっていない。
しかし、この写真帳には、大川筋や南与力町が浸水している写真が掲載。さあ、どういうことか。写真には「地盤沈下による高潮浸水」とのキャプション。地震の後には降水もあるので、地盤沈下で、降った雨が排水できていないのではないか、との考え方もあると記事には書かれています。
昭和40年の10号台風時、南与力町に住んでいた僕は、高潮による浸水を経験しています。鏡川が氾濫した訳ではなく、高潮等で排水できなくなった多量の雨水が溜まって水位を増していった、あの水害。
下知地区などが、地盤沈下と高潮で長期浸水に見舞われたのはご承知の通り。南与力町も、しばらくは水が溜まり易い状況になっていたんでしょうか。
昭和南海地震が発生したのは昭和21年12月21日。弊社が、「土佐乳業株式会社」という社名で南与力町に法人を設立、工場を稼働させたのが昭和21年3月。なので、昭和南海地震の際には、南与力町で工場を稼働させておりました。浸水で大変だった、という話は聞いたことないけど、どうだったんでしょうね。その頃のことを知る人は、もう誰もいないので、わかりません。
この上右の写真が南与力町とのこと。どこなんだろう。弊社の近くだとは思います。こんな状況の南与力町で、操業間もない工場で働く皆さんも苦労したんでしょうね。貴重な写真です。
ご承知のとおり、昭和南海地震は、南海地震としてはかなり規模が小さいものでした。なので、来るべき南海トラフ大地震は、もっとずっと大きな規模になることを覚悟しておかなければならず、浸水域想定も、昭和よりはかなり広く考える必要があります。
護岸の堤防工事が進む高知沿岸ですが、あの、東日本大震災の巨大津波がスーパー堤防を軽々と超えていく風景は、忘れてはなりません。
昭和21年12月21日の朝は、氷点下0.6℃まで冷え込んでいます。災害は、どんな時にやってくるのかわからない。どんな被害をもたらすのかもわからない。
今朝の記事は、そんなことを考えさせてくれるもの。