石垣がストン〔7910〕2024/12/11

2024年12月11日(水)晴れ!
最新号の「土佐史談」に、土佐城郭考古学の第一人者、松田直則先生の「浦戸城跡石垣の再検討」という論文が掲載されてました。おう。これは嬉しい。早速読んでみて、かねてから抱いていた違和感の理由がわかり、ストンと胸に落ちたのでした。ストンと。
違和感を感じていたのは、浦戸城址の天守台の下にある、この石垣。説明版によりますれば、「天守台から延びた石塁の一部を移築したもの」とのこと。国民宿舎桂浜荘の建築で取り壊され、移築された石積みだ。この石積み、砂岩であるのは、この界隈が四万十帯だから違和感は、ない。違和感は、この、表面が平らに加工された外観。この石垣が積まれる以前の、高知城三ノ丸の長宗我部元親によって積まれた石垣も、この後の時代の高知城の石垣も、チャートの自然石野面積み。砂岩とは言え、割石面を見せて表面を平らに見せている積み方は、他には見られない。
今回の論考では、その辺を考察している。それは、織豊系城郭の変遷を詳細に調べていくことで判ってきた、秀吉の嗜好が多分に影響を与えた石積みなのではないか、という考察だ。どうやら秀吉政権は、この秀吉の嗜好を、支配下の城郭石垣に広げていったようである。
まず、1586年から1591年の間に積まれたと思われる高知城三ノ丸の石垣は、チャート主体の野面積み。自然石の粗割石を、そのまま用いていて表面を平板にしていない。1592年から1596年の間に積まれた、この移築された石積みは、松田先生の表現では「築石非整形・割面主体石垣」である。これは、恐らくは普請も作事も、秀吉傘下の工人、職人に頼って築かれたものではないか、と考察されてます。なるほど。だから、こんなんだ。
どうやら文禄五年(1596年)の伏見地震で、秀吉好みの石垣は結構崩壊したみたい。その後、こういった割面主体石垣はあまり見られなくなっていくのは、強度のことが考慮されるようになったからんでしょうかね。浦戸城でも、伏見地震の後、1596年から1599年の間に築かれたと思われる石垣は、チャートや石灰岩主体の自然石による野面積みになっているそうです。さあ。どうなんでしょうか。
ともあれ、この石垣は、国民宿舎桂浜荘建設の際に移築されました。その他の石垣などは、壊されてしまって、今はもうありません。戦国期末期の貴重な貴重な歴史遺産を、龍馬観光、桂浜観光の為に壊してしまったことが、悔やまれます。今、指定管理者が撤退した後、再開を目指して模索中の、桂浜荘。