丸山台は先人の遺産〔7891〕2024/11/22
2024年11月22日(金)晴れ!
先日、丸山台と板垣退助さんについて少し書きました。実は、「板垣会」という板垣退助を顕彰する団体の会報誌に文章を書かんといかんハメになってしまい、少し情報を整理したりしてたんですね。その過程で、丸山台という島の成り立ちについて色んなことが判ってきたので、少し書いておきます。「板垣会」の会報誌にも書いたので、ちょっとフライングやけどこちらに。
かの、土佐史の碩学橋詰延寿先生が高知市観光協会から出版された「高知市史跡めぐり」という小さな冊子があります。そこには、丸山台について、鏡川河口にあった松林山だと書かれています。貞享の頃に洪水があり、山を崩して丸山と玄武島の間を埋めて浅海とし、その後洪水はなくなった、といった内容。この元ネタは、恐らく「土佐國白湾往来」という本。松野尾章行という人物によって明治初期に編纂された本。その本には、潮江川河口、弘化台の傍に丸山という松林山があり、貞享四年(1687年)の洪水の後、山を崩して、深かった丸山と玄武嶋の間を埋めて浅海とし、その後貞享のような洪水はなくなった、と書かれているのでありますね。公文豪先生も、この文章を参照しておられました。
さて。深かった河口を浅い海にして、洪水がなくなった。これはなんか、おかしい気がしませんか?
河口が浅くなると、洪水って増えそうな気がするけど。そんな訳で調べてみたのでした。ご教示頂いたのは、高知城歴史博物館の渡部館長さん。昔、丸山台の話をされていたことがあったのを覚えてたので、聞き合わせてみたのでした。
かなりご苦労されて探し、ご提示くださったのは山内家史料「歴代公紀」十代豊策公紀三十一巻、寛政八年七月の史料。山内家家臣の日記ですね。内容を現代文にして要約すると、こう。
(宮地日記)潮江川の真如寺から下で川浚を行い、川尻に砂山ができた。
(馬詰日記)この五月から七月初めまで天神橋より下流の川尻まで、おびただしい人夫で川浚が行われ、川尻に「丸山」ができた。この川浚によって、洪水はなくなった。
寛政八年は1796年。鏡川河口部の浚渫を大量の人夫を投入して実施し、その浚渫した残土で丸山ができた。これにより、洪水がなくなった、という内容の日記で、日記という同時代資料であることに鑑み、これが事実なのではないか、と思った訳ですね。少なくとも、明治になって成立し、その文章の前段に「聞出聞盲伝・・・」とある「土佐國白湾往来」の文章よりは信頼できるのではないか。
この明治期の地図で見ると、丸山台も、玄武島、弘化台と直線上に並ぶチャートの島に見えます。しかし実際はそうではなく、先人の知恵と努力によってできた人工島だった模様。だから岩石島ではなく、平坦な島。平坦な島だったので、板垣を迎えて大懇親会を開くこともできたし、此君亭の「丸山台温泉場」が開業できたのでした。
今朝は、新田の方から眺めた丸山台。改めて、平坦やねー。年に数回、大潮の干潮時には、ここから徒歩で上陸できる、丸山台。先人の知恵と努力に想いを馳せる、朝。