水路閣の絵を河田小龍が書いた訳〔7882〕2024/11/13
2024年11月13日(水)晴れ!
最近、県立文化施設が同じテーマで連携する企画展、やるようになりました。いいねー。この夏、県立文学館の「ムー展」と県立美術館の「ムーな映画」が連携。楽しませて頂きました。
で、現在、県立美術館、坂本龍馬記念館、県立歴史民俗資料館が連携して、我らが河田小龍の企画をやってます。いいねー。
幕末から明治に生き、土佐の維新にも大きな影響を与え、貴重な絵画や絵図などをたくさん手がけた河田小龍さん。この見出しにあるように「好奇心旺盛でマルチな画人」。県内各所にその絵画が残り、このにっこりでも幾度も取り上げてきました。
で、この手前上の絵。これは初めて見ました。「疏水南禅寺廻路之図」。京都府知事に依頼され、完成して間も無い時期に書かれたという「水路閣」だ。いや、これは貴重。
明治期、西欧から伝わった最新の土木技術を駆使してつくられた琵琶湖疏水。琵琶湖の水をそのまんま京都の街へと引き、発電などにも利用しようと作られた疏水。その琵琶湖疏水が南禅寺の境内を通るに際して構築された美しい水道橋が「水路閣」。初めてこのにっこりでご紹介したのが12年前、2012年12月2日。
で、偶然なんですが、その翌日、水路閣の話題から河田小龍さんの話につなげているんですね。なんという偶然。もちろん、水路閣を河田小龍が描いているなんてことは、全然知りませんでした。
琵琶湖疏水を計画した京都府知事は、北垣国道。北垣国道知事が、工部大学校を卒業したばかりの新進気鋭の技師、田邊朔郎を主任技術者に任命して作り上げたのが琵琶湖疏水。その北垣知事、明治12年には高知県令もやってますので、河田小龍とはその時に知己を得たんでしょうかね。小龍の画力、好奇心、進取の精神を感じ取っていた北垣国道が、自らが発案して美しくできあがった疏水の風景を依頼したのかも知れない。
田邊朔郎が卒業した工部大学校には、精緻に図面を描いたりする目的で「工部美術学校」が併設されてました。その卒業生を中心に、東京美術学校と対立したりしながら日本の西洋美術が発展していった訳やけど、1883年に、国粋主義などが台頭する中で工部美術学校は廃校になってます。
北垣が小龍に依頼した頃には、既に工部美術学校は廃校。もし廃校になってなかったら、当然そこの画家に頼んだであろう、琵琶湖疏水、水路閣の絵。工部美術学校が無くなったので、誰に絵を頼もうか、そうだ、河田小龍だ、となったのかも知れません。
この美しい絵画の成立には、そんな諸々の歴史があったことを想像したら、楽しいねー。