丸山台と板垣〔7877〕2024/11/08
2024年11月8日(金)晴れ!
冷やいねー。やっと秋も本番。そんなひんやりした朝になりました。ここは丸山台。
鏡川の河口にポツンと存在する島、丸山台。以前、幾度か徒歩上陸を果たしたことのある島では、先日、宴会が行われました。板垣退助らが、「民撰議院設立建白書」を明治政府に提出したのが1874(明治7年)1月で、今年で150年。その記念事業のひとつやね。僕は行けてないけど、なかなか盛り上がったようです。記念講演は敬愛する公文豪先生。板垣と自由民権運動研究では右に出る者もいない、公文先生。恐らくは、丸山台と板垣との関係などをお話されたと想像します。
その公文先生が過去に「土佐史談」に書かれた内容とかから、今朝は板垣と丸山台について整理しておこうと思いました。写真は、かつての稲荷新地の堤防上から撮影した丸山台。
丸山台の成り立ちについては、また今度。昭和南海地震以前の丸山台は、もっと広かったと言います。
で、明治15年。明治15年4月6日、板垣は岐阜での演説の後、暴漢に襲われます。「板垣死すとも自由は死せず」といった内容の発言が有名になった、あの事件。アメリカでトランプが銃で撃たれ、怪我しても無事だったことから人気が高まったように、板垣も、その事件で無事だったことから注目を集め、人気が出たという側面もあるようです。まあ、一緒にはせられんけど。
岐阜遭難から1ヶ月ちょっとの5月14日、板垣の令息鉾太郎を迎え、稲荷新地や丸山台に1000名の民権派が集まって「板垣君疵傷平癒ノ祝宴」という大懇親会が開催されたのでした。当時の丸山台には何もなくて、幔幕を張ったりしての仮設の宴会場。立錐の余地もないほど人が集まり、周囲を船が取り囲んだという風景。
その明治15年末から16年6月まで、板垣は後藤象二郎らと洋行します。その資金の出所などを巡って自由党内で揉め事が起きたのは有名な話。で、その洋行に肯定的であった土佐の民権派は、洋行から帰って来た板垣を浦戸湾に迎え、歓待します。今回は本人も居るので、前年を上回るとんでもない人数が集まり、大宴会を催したのでした。
前年、何もなかった丸山台は、その年、明治16年春に、稲荷新地で繁盛していた料亭「此君亭(しくんてい)」の内川源十郎が島ごと買い取り「丸山台温泉場」という娯楽施設をつくっておったのでした。今回は、そんな施設を利用しての「帰朝報告大懇親会」となり、またまたものすごい人が丸山台に上陸、上陸できなかった人たちが海上や稲荷新地に溢れた、とのこと。当時の写真が残っておるけど、すごい数の船や人。熱気がすごいね。
板垣は、明治10年に潮江新田に屋敷を構えており、丸山台は目の前と言うても良い立地。歓迎大宴会を開催するには絶好の場所だったでありましょう。
公文先生は、その後の「此君亭」のこのなども調べて文章にしておられますが、今日はここまで。
此君亭の後、様々な変遷を経た丸山台も、昭和南海地震で面積が狭くなり、川鵜や鷺の楽園となって、こんな感じで静かにたたずんでいます。
兵どもの、夢の跡。