鉱山と社会〔7867〕2024/10/29
2024年10月29日(火)曇り
一昨日のにっこりひまわり。パソコンのディスプレイに表示している写真で、右下の写真の説明がありませんでしたね。忘れてましたね。そう。巖手屋さんとか行ってきた際、僕のたっての希望で立ち寄った、松尾鉱山跡の集合住宅跡地。廃墟マニアには有名な、緑ヶ丘アパート跡。なかなかの迫力でした。
松尾鉱山は、かつては東洋一の規模を誇った硫黄、黄鉄鉱の鉱山。明治末年に開発が始まり、諸々の経緯を経て、昭和20年代後半にはピークを迎えます。日本の硫黄の30%を生産してたというから、すごい。何もなかった山中に15000人が暮らし、「雲上の楽園」とまで言われた鉱山町が形成された、松尾鉱山。
しかし、輸入品が増加した上に、亜硫酸ガス公害対策で、石油精製過程での脱硫による硫黄の生産が増加した為に売り上げが激減、急速に廃山への流れが進んでいったという、松尾鉱山。1972年に、完全に閉山となってしまったのでした。
しかし。その跡地は土壌汚染で強酸性となり、荒地となった為に、こんな感じで森には戻っていません。そして有毒物質が流れ出る為に中和施設がつくられ、今も将来も稼働しなければならない、という負の遺産を残してしまった、松尾鉱山。
昭和20年代につくられた集合住宅は、水洗トイレやセントラルヒーティング完備の最先端。松尾鉱山の部長級の年収は岩手県の所得番付に乗ったというから、すさまじい高待遇の「雲上の楽園」のその後の経緯は、誰も想像できんかったでしょうねー。今は中和施設と地熱発電と、そして廃墟マニア垂涎の廃墟が残るばかり。小さいながらも資料館がありました。
そして、緑ヶ丘アパートを撮影にくる廃墟マニアは、結構たくさん。世の中には物好きが居たもんだ。他人のことは言えんけど。
写真は、介良の鉢伏山。西から撮影した鉢伏山。この正面、岩屋観音堂から白水へと下りてくる山道の途中に、マンガン採掘の跡が、あります。そんなに大規模ではないけど、この山にもマンガン鉱山がありました。高知では穴内のマンガン鉱山が有名で、高知県は、かつては国内でも5指に入るマンガン鉱の産地だったといいます。アフリカとか中国の生産が増え、1974年を最後に日本ではマンガンの採掘は行われてない、とAI概要が言うてますね。それにしても誰がどうやって見つけたんだろうね。昭和初期には閉山となったという鉢伏山のマンガン鉱山。
松尾鉱山閉山も、日本でのマンガン採掘終了も、1970年代のこと。その頃、日本の鉱業の様相は激変したようです。たった半世紀前のこと。大学の理系エリートが鉱山会社へ就職していた時代があったのに。あっという間に社会は変わる。廃墟は、そんなことを教えてくれますねー。
今週末、「謝肉祭」で大川村へ行く予定やけど、あの「謝肉祭」が開催される場所も、実は、鉱山町の跡地。あそこにあったゴーストタウンを訪れたのは、高校生の僕。今にしてみれば貴重な経験でした。台風、来ないといいねー。