昭和37年の土讃線〔7849〕2024/10/11
2024年10月11日(金)晴れ!
良いお天気。今日は出張で本州方面。大好きな土讃線の汽車に乗って、本州へ。カーブの多い山中を高速で走り抜ける為、振り子列車になっている特急南風。その独特の揺れ方で酔ってしまう人も多いようですが、僕は大丈夫。乗り物酔いには強い方ではないのに酔わないのは、土讃線愛が強いからだと思ってます。「愛」は強いねー。
そんな土讃線ですが、全通したのは昭和10年。当時の技術やいろんな制約から、吉野川や穴内川の崖に沿う様に建設された、土讃線。途中、地滑り地帯も多く、そんな危険地帯を緩和すべく、1950年から1986年にかけて、トンネルを掘るなどして、ルートの変更が行われてきました。
トンネル開削によって廃線となった部分は今も痕跡が残りまくっており、幾度か探検、紹介してきましたね。大杉駅と土佐北川駅の間や、大歩危駅と土佐岩原駅の間、そして土佐穴内駅と大田口駅の間など。
実は。そのルート変更された箇所では、甚大な土砂災害というのは発生してません。早々にルートが変更されたので、未然に災害が防がれた、という側面もあったでしょうか。
土讃線での災害、と言うと、真っ先に思い浮かべるのが繁藤災害でしょう。幾度も紹介してきたように、60名の犠牲者を出し、土讃線は復旧まで23日を要しています。
そして、余り知られてないですが、1962年2月、昭和37年の2月に、豊永駅と土佐岩原駅の間で土砂災害が発生し、2名の国鉄職員の方が殉職されてます。土砂崩れで不通となった現場での災害復旧作業中だった、とのこと。この土砂崩れは山半分が消し飛ぶという激しいもので、約1ヶ月、土讃線が不通になったとのこと。
鉄道輸送が大動脈だった時代、1ヶ月もの間の不通というのは、高知県人にとって甚大な影響だったでしょうねー。
その1962年2月の災害で殉職された職員さんの慰霊碑が、線路脇に建てられています。以前、鉄分がかなり濃い知人のKさんから、その慰霊碑へ行く道がないだろうか、といった話を聞いたのですが、道は無いようですねー。恐らくは今でも、JRの保線作業員さんしか行くことのできない場所に、静かに立っている慰霊碑。この辺だと思います。
汽車の車窓からも一瞬だけ見ることができるので、当てずっぽうでスマホのシャッターを切ってみたら、なんと、写ってました。ブレブレですが、真ん中に。
美しい土讃線にも、いろんな歴史があり、先人の命をかけた営みが、ありました。