解き明かされていく、日高村の謎〔7848〕2024/10/10
2024年10月10日(木)晴れ!
先日、日高村の村名由来について触れてからこっち、合成地名について興味を持ち、昨日は「大楠植村」のこと、書きました。
で、きっかけとなった「日高村」の村名由来について、色々とわかってきたので、報告申し上げます。もちろんデータソースは、いつもお世話になっております日高村役場のOさん。Oさん、ありがとうございます。
Oさんにご教示頂いたのは、日高村史に書かれている由来。重要な文章なので、そのまま転載しますね。以下転載。
合併村名命名の由来
昭和29年9月15日、合併村名の命名調査委員会を、日下村役場において開催し、投票詮衝にあたって、日上、仁淀、日高、弥生、協和など数多くの提案名称を審議したところ、矢野美吉委員より、
「堀地恵次郎氏の考案による『日高』案はまことに目出度き村名であり、日高の日は日本の日に通じ、高は高知県の高に通ずるので『日本国高知県日高村』となり、はなはだ妙案と思われますが・・・」
という提案に対して満場賛成、拍手の裡に「日高村」の決定を見た。しかしその裏面にはまた、往古伊予二名島の国造小千命が、四国支配の本拠を伊予日高の地に置き、土佐支配の支所を日下においたという故事伝承をひく意義もあったようである。
以上転載。伊予二名島云々の伝承はともかく、日高村決定の経緯が判明してきました。つまり。
恐らくは、「高知県地名大辞典」にあるように、日下村の「日」をとって日が高く昇るという意味を込めて提案された「日高村」に、「日本」と「高知」に通じるので目出度い目出度いと賛成討論をした方が居て、そうだそうだ、ということになって決定した、ということだったのではないか。そういった経緯が推察できると思います。なので、ウィキに書いている内容も、あながち嘘八百という訳ではなく、真相を掠っている、と言えるのかも知れません。
ちなみに日高村役場Oさんからの情報では、小村神社近くの神宮寺にあるお地蔵さん(渡地蔵:別名空飛ぶ地蔵)が、空を飛んで家々を順番に拝んでいた際、光ったとのこと。その光った下、つまり日の下、ということで「日下」になった、との伝説も、あるとのこと。面白いねー。
ともあれ「日高村」の由来が、なんとなく判明してきました。「日本」と「高知」で目出度い目出度い、と言われて、「日下」以外の地域の人たちも納得した、ということなのかも知れませんな。
ここは今朝の日高村。小村神社近く、武山家住宅の石垣を撮影してきました。日高村を流れる仁淀川は、幾度も書いてきたように、様々な地層を流れてくる川。なので、様々な色の、様々な岩石が豊富。この武山家の石垣は、そんなカラフルな川石の表面を平に加工した石が使われており、通常、加工石は同じ種類のものが使われることが多いのに、いろんな色の色んな石が同じ様に加工された非常に珍しい石積みになっている、とのこと。
実は。この石積の上には、かつて大きな蚕室を持った建物が立ってました。11年ほど前、その貴重な産業遺産を撮影、FBで紹介したことがあります。今はもう取り壊され、このような姿になりました。しかし貴重な石積は残されており、このような風景を醸し出しています。美しいねー。今気付いたのですが、あの蚕室が取り壊されたのは、2014年1月だったようです。Googleマップのストリートビューで、2014年1月を見てみると、まさに取り壊し中の蚕室が写っておりました。なるほど。
Oさん、諸々の貴重な情報、ありがとうございました!