妹背峠と蛇紋岩と渡世山〔7843〕2024/10/05
2024年10月5日(土)小雨のち曇りのち晴れ
日高村は、昭和29年、日下村、能津村と加茂村岩目地・九頭が合併して成立。翌年、岩目地の一部が佐川町になり、加茂村入沢を合併。入り組んでます。佐川町と日高村の行政区分は、昔の行政区分のが入り組んでてかなり複雑。
日高村という村名は、昭和29年に成立した際、日下村の「日」をとって日が高く昇るという意味をこめて付けられた、と言います。日下村と能津村は藩政期に境界争いをしたりしてるので、その村名については揉めんかったんでしょうかね。それはともかく。
こないだも書いたけど、日下の町から北へ、錦山CCやグリーンフィールGCの方へと上り、峠を越えて北へ下ると、その道は「蛇紋岩街道」。すごいですよ。蛇紋岩好きには堪らない。道路沿いは、僕も大好きな蛇紋岩の圧倒的な露出。写真は、ゴルフ場への分岐となる「妹背峠」。ここ。地質図で見ると、こう。向こうにグリーンフィールGCの看板が見えてます。そして、この蛇紋岩。美しいねー。
妹背峠。藩政期の時代、「渡世山」だったと言います。角川「高知県地名大辞典」によりますれば、この地区では、「天災地変、凶作に際して農民救済を目的として妹背・柏井・渋川・光岩の4山を渡世山と定め、入札・売却による売上金の配分を行った。」とあります。そして住民に売上金が配分され、「渡世」の資金とした、と。日高村史によると、1748年、1765年、1777年に入札が行われ落札されてるとのこと。入会地のような山が個人所有になるんでしょうかね。そうすると、その後はどのような利用になっていくんだろうか。藩政期の社会の仕組みとして、興味深いところです。興味深くないですか?
その「渡世山」の一つとなったのが妹背山。この写真の界隈だったのでしょうか。
「渡世山」という仕組みは、当時の日本には存在したんでしょうかね。ネットで検索すると、その時代の阿波の文献にも出てくる様です。
まず、管理収益の主体が村にある山で、村民が秣肥草等を採取する「入会地」とは違い、「自姓が稼業のために用材、薪炭材を採取する山」を「渡世山」と読んだようです。「稼山」とも呼ばれたみたい。蛇紋岩地帯は植生が独特で、山の管理にも苦労したんでしょうか。勉強になりました。世の中、知らないことだらけ。
こないだも書いたけど、穿入蛇行による仁淀川の蛇行と美味しい鮎、それに、蛇紋岩地帯で採れる朴木の朴葉を組み合わせて名物になったら楽しいねー。日高村役場の名物職員、Oさんが考えてます。Oさんに、こんな事例もあるということをご教示いただきました。蛇紋岩米と仁淀川鮎の朴葉焼きを蛇紋岩米で食べる、という夢を抱いていおられます。
いいねー