名切川と轟神社〔7799〕2024/08/22
2024年8月22日(木)晴れ!
先日の雨で少し涼しくなったか、と思ったのは気のせいだったのか、またまた35℃の夏に戻ってしまいました。朝から暑いねー。
ここは西秦泉寺。夜明け前の名切川。
高知市北郊を流れる久万川の支流。久万川の支流というと西から流れ込む紅水川が有名やけど、東に流れる久万川に北の山から流れ込む支流は、3つあります。東から、東谷川、金谷川、そして名切川。なんとなく西谷川と思い込んでたけど、名切川。西谷川と思っておったのは、西谷というバス停があったからやね。
今、調べてみたら、「西谷」というバス停は「いづみ保育園前」という名前に変わってました。そうそう。僕が高校へ通っていた頃、家の前のバス停は「秦泉寺局前」やったのに、今は「秦小学校北口」。まあ、半世紀前の話なので、変わってしまうのも当たり前だ。秦泉寺特定郵便局も、今は、無い。
この界隈の風景を劇的に変えたのは、やはり北環状線という大きな道路でしょう。そして何より、イオン。北環状線沿いにはたくさんのロードサイト店が並び、宅地が開発され、そして、イオン。
この写真を撮影したのはこの橋の上で、かつてはこの道が幹線道路やったけど、現在は向こうの、トラックが走っている北環状線がメイン道路。その向こうの森は、轟神社の森。6月30日には輪抜け様、やってました。昨日の話ではないけど、地域のお祭り、地域の紐帯。こんなにも風景が変わったけど、やはり地域の神社、地域のお祭りは地域の人々を結びつけるもの。
あの轟神社の御祭神は、水波女神、国狭土命、そして大山祇命。水波女神は、古事記や日本書紀にも登場する水の神様。で、昭和9年に、現在の徳島県海陽町に鎮座まします轟神社から勧請されてきたとされているそう。その轟神社は、ここ。海部川の支流、王余魚谷(かれいだに)川をずんずんと遡った山中の、神社。近くに轟の滝があるので、古くからの信仰を集めておったのでしょうか。蜂須賀氏が、秀吉朝鮮出兵に出陣する際に戦勝祈願として創建したのが、その轟神社とのこと。神社の立派なHPに、詳しく書かれております。そして、林業、水産業、廻船業、農業などの幅広い信仰を集めたと。
すべての幸(さち)の、その大元は川の源流にある、という思想が感じられる話やね。
近代になってもその信仰が衰えず、益々盛んになり、高知でも盛り上がったことから、この地に勧請してくることになった、と言います。そのご利益は、こんな感じ。名切川には滝は無いけど、水の神様は川沿いに、ということやったんでしょうか。
滝で思い出したけど、僕が中学生の頃、大雨でこの名切川が増水、氾濫しました。周囲の低地は浸水。そのときは、この名切川も滝のような激流になっていたことでありましょう。昭和初期の人々にとっても、名切川の増水氾濫の記憶があったのかも知れません。
その後、より高い堤防と擁壁が築かれ、今のような名切川になりました。
風景は激変し、バス停の名前も変わり、いろんな記憶も薄れていくけど、地域の神社は地域の紐帯として、愛されていって欲しい。