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今日のにっこりひまわり 毎日健康社員日記

小牧空港、小牧長久手、恐々謹言、恐惶謹言〔7782〕2024/08/05

小牧空港、小牧長久手、恐々謹言、恐惶謹言

2024年8月5日(月)晴れ!

昨日の朝、北山を走ってたら、クマゼミのワシャワシャに混じってミンミンゼミのミーンミーン。実は先週ツクツクボウシの声も聞いたので、高知もいよいよ暑さはピークか、と期待が膨らむ8月第二週。今週末はいよいよ、よさこいだ。

今週は、高知の宿泊施設もいっぱいいっぱいと聞きます。高知空港発着の飛行機も、高知着便には満席が多くなってきました。

このブルーのカラフルな機体はFDA。フジドリームエアラインの飛行機。今朝、県営名古屋空港(小牧)かた高知空港へ飛んでました。再び8:40に出発して中部国際空港セントレアへ向かう飛行機。今、高知ー名古屋(中部国際空港)は1日2往復で、高知ー名古屋(小牧)は1往復。近年中部国際空港に乗り入れるようになったけど、僕はまだ、それには乗ったこと、ありません。小牧しか使ったこと、ありません。

 

FDAのホームページ見ても、県営名古屋空港は「名古屋(小牧)」と表示されてるように、かつでの名古屋空港、現在の県営名古屋空港は「小牧」と呼ばれたりします。名古屋市内へのアクセスがいいので、便利な小牧。

小牧というのはもちろん地名で、日本人なら「小牧・長久手の戦い」を連想するよね。どんな合戦かは知らなくても、名前くらいは知っている「小牧・長久手の戦い」。信長亡き後、秀吉と、徳川家康・織田信雄連合軍が戦った9ヶ月に及ぶ長い合戦で、その評価は今もかなり分かれる合戦。秀吉が勝った、とか、いや、勝ったのは家康だ、とか。とにかく終わり方がはっきりせんので、勝敗すらもはっきりしない「小牧・長久手の戦い」。

昨日、海南史学会という土佐の歴史専門家皆さんの学会があり、「小牧・長久手の戦い」界隈を専門とする都立大学の谷口央教授の記念講演がありました。演題は「長宗我部氏に学ぶ小牧長久手の戦いの終わり方」。

 

合戦後の人質作法から、どっちが勝ったのか、どれくらいの勝ちだったのかを考えたもの。信長に臣従した長宗我部元親の人質の出し方と、小牧長久手の戦い後の、家康から秀吉に対しての人質の出し方や秀吉の書状かを比較し、「小牧・長久手の戦い」終了直後では、家康は秀吉に完全に臣従するには至っていない、との結論を述べておられました。それくらいの結末の、小牧長久手の戦いだったという話。完全に臣従するのは、2年後、家康が上洛してからだ、と。面白いねー。

大学の先生、完全なる専門家の先生の論理には揺らぎがなく、実証的で、説得力がありました。

 

あと、勉強になったのが、書状の結びにでてくる「恐々謹言」と「恐惶謹言」の違い。対等な相手への書状は「恐々謹言」で結び、目上の相手に対しての結びは「恐惶謹言」というルール。これは、たとえ合戦、喧嘩の相手でもちゃんと守られてて、これを分析することで、関係性や立場の認識がよくわかる、という話。

「小牧・長久手の戦い」の際の秀吉の書状を分析すると、この頃の秀吉は、信長が亡くなった後のこの時期でも、あくまでも織田家臣である、という立場を崩していない。なので、例えば信長と対等だった毛利や上杉には「恐惶謹言」で、毛利の家臣である小早川には「恐々謹言」。

小牧長久手の戦いは、織田家臣という立場を崩さずに、織田信雄を擁した家康と戦う、というややこしい状況だったことが、「恐々謹言」と「恐惶謹言」でわかったりするんだそう。いや、勉強になりました。世の中知らないことだらけ。

 

ともあれ、元々織田の勢力範囲で、家康・信雄が陣取っていた小牧山近くから飛んできたこの飛行機。織田の勢力下にあったセントレアへ飛んで行くけど、そういった織田の勢力圏を秀吉が取るか家康が取るか、という重要な戦いが「小牧・長久手の戦い」だったのでした。


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