古代土佐の地勢と風景〔7781〕2024/08/04
2024年8月4日(日)晴れ!
昨日の「若宮ノ東遺跡」現地説明会には、折り畳み傘持って行きました。そう。日傘。
男性が日傘、というのはかつては殆ど見かけんかったけど、昨日の説明会でも、日傘を差した男性が僕を含めて数人おりましたね。初めての日傘の感想は、「涼しい」。こりゃあいい。帽子とかよりずっと涼しい。こんないいものがあったんだね。世の中知らないことだらけ。
さて、「若宮ノ東遺跡」。昨日も書いたように、7世紀後半の長岡郡(評)の評衙ではないか、というのが南国市や県の埋蔵文化財センターの見解、らしい。では、その時国衙はどこに。
実は、国衙というものは、律令制度の確立、整備に伴ってできたもので、地方でも国衙が確立したのは8世紀になってから、というのが定説。と、言うことは。
昨日の「若宮ノ東遺跡」が7世紀後半のものだとすれば、まだ国衙がない時期の役所だった可能性がある訳だ。だとすれば、その役所の地位というか立場というか、土佐という国の中での立ち位置は、国衙に準じるようなものだったのかも知れませんな。なので、あのような大きな建物が並ぶ立派な施設だったのかも知れない。
ちなみに、8世紀になってからかも知れんけど、土佐の国衙が置かれたのは恐らく現在の国分寺から比江にかけて。以前にも書いたけど、その界隈も、「若宮ノ東遺跡」界隈と同じく非常に多くの弥生末期の竪穴式住居が発見されている場所。その理由も以前考察したことあるねー。
当時の土佐では、その地形、地勢から、この辺とこの辺に多くの人が住むようになった。その重要拠点に国関係の役所ができ、そこを結ぶ、東に12度〜13度傾いた直線の官道が律令に基づいて建設され、その官道に合わせるように、条里が整備されていった、という歴史を妄想してみました。
地形分類図で見ると、「若宮ノ東遺跡」がここで、国分がここ。以前紹介した白鳳時代の秦泉寺廃寺がここで、都左国造が住んでたかもしれないのがここ。現在の標高が5m以下のところは当時は海だった可能性が高いので、古浦戸湾の周縁部と、国分川や物部川の肥沃な扇状地の小高い場所に、重要施設が分布していることが、なんとなくわかるよね。
今朝は、既に30℃を超える暑さの中、北山を走ってきました。写真は、北山の麓。秦泉寺廃寺遺跡は、ここにありました。