弘化台とお台場と〔7771〕2024/07/25
2024年7月25日(木)晴れ!
今朝は高知。昨日の夕刻の飛行機でモンてきました。窓の外からはクマゼミの大合唱。昨日、東京を走った際に聞こえてきたのはミンミンゼミ。同じ日本でも、地域によって自然は違う。当たり前やけど。
で、昨日、台場のこと書いたので、今日は高知の砲台建設について。ここは高知の台所、弘化台。中央卸売市場がつくられた埋立地で、ここのことは、みんな、弘化台と呼びます。その名称は、弘化年間につくられたという砲台に由来すると言いますね。
ただ、このにっこりでも考察したように、現在の弘化台は、元々の弘化台の場所にはつくられていません。そもそもの弘化台があった場所は、今はもう海の底。なのでこの埋立地に「弘化台」という名前を付けたのは誰だ、という話になる訳です。まあ、どうでもいいですが。
弘化台。弘化年間に砲台が築かれた、という弘化台。弘化年間というと1845年から1848年。ペリーが浦賀にやってきたのは嘉永6年(1853年)で、江戸湾に台場が築かれたのはその後なので、弘化台は、それよりも前に砲台がつくられたもの、ということになります。
目的は何だったのか。やはり、海外勢力の脅威に備えてのことだったのか。まだペリーもやって来てない時代に、そういった危機感が土佐藩にあったのかどうなのか。あったのだとすると、国際情勢に関する情報は、僕らが思っているよりも早く、深く、土佐の国まで伝わっていたんでしょうか。砲台が構築されたという弘化台の位置は、紛れもなく、浦戸湾を遡ってくる敵から高知の城下町を守る場所。まあ、ここに旧式の砲台がひとつふたつ有ったところで、役には立たんかったかも知れんけど、それは江戸の巨大な台場でも同じことやったでしょうねー。
ペリーがやって来て、対外関係が怒涛のように動き始める。
何と、ペリー来航の翌々年、土佐藩では、山内容堂の指示で製作された模型蒸気船が、浦戸湾内を航行したと言いますき、すごい。見てみたかったね。
龍馬が脱藩した文久二年(1862年)、土佐藩の「海軍修練方」が、「浦戸湾実測之図」というものを制作。2500分の1という、なかなか詳細な地図。潮の満ち引きでどれだけ岩が現れるか、といった情報も盛り込まれていて、当時の藩の緊張が伝わってくる地図。その地図には、弘化台の沖に航路を示す、番号が振られた杭も表示されているそう。土佐藩は、本気だ。
そんな弘化台。今は市場の島。ただ、市場の取扱量減少などもあり、かつてのほどの活気はないけど、今も高知の台所であることには変わりはない、弘化台。