板部遺跡に暮らした人々〔7768〕2024/07/22
2024年7月22日(月)暑い
早朝からクマゼミの大合唱が、夏の暑さを際立たせておりますな。暑い。本当に暑い夏になりました。
昨日の高知新聞に、南国市の「板部遺跡」で、縄文後期の竪穴住居3棟と土器などが発掘されたという記事がありました。NHKでもやってたみたい。その場所は、弊社からも近い南国市堀ノ内。
堀ノ内という地名は、長宗我部地検帳にも「堀内村」と出てくるくらい古く、かなり勢力のあった豪族の拠点だったことが窺われます。拠点を囲むお堀の内側ですきんね。
以前、この北東にある福田八幡宮と岩村城、そしてこの界隈に点在するお城のことなど、書いたことがあります。物部川の扇状地で、交通の要衝でもあったこの界隈、古くから人々が暮らしていたことは、知ってました。しかしそれが縄文時代となると、すごい。
縄文後期。約3000年前。ここに人々が竪穴式住居で暮らし、土器をつくったりしていた訳だ。まだ水田稲作が始まってない訳なので、物部川の魚とかがメインディッシュだったんだろうか。googleマップで見るとこうで、山までは、ちと、遠い。わざわざここに住む、ということは物部川との密接な関係があったんでしょうな。
高知県に縄文遺跡は非常に少ない。そしてその存在は県西部に集中してて、この県中部、東部には本当に少ないんですね。南国市で言えば奥谷南遺跡は有名やけど。
弥生時代になると様相が一変し、現在の高知空港滑走路北東部を中心に大規模な集落が形成されたのはご承知の通り。南四国最大級の集落、田村遺跡。現在の高知県人のDNA分析などから、高知県人には、この時期に朝鮮半島方面から渡来してきた人たちの子孫が多いこと、わかってます。つまり、田村遺跡は、渡来系弥生人の大規模移動によって形成された可能性が、高い。
では、堀ノ内はどうだったのか。地理院地図の地形分類図で見ると、ここが堀ノ内で、ここが田村。この記事にもあるように、ここ堀ノ内では、弥生時代にも集落が存続している模様。その集落を構成していたのは、古来土着の縄文人だったんでしょうか。すると、田村の弥生人とは、どんな関係だったんだろう。
存続し続けた、ということは、少なくとも激しい対立関係ではなかった、ということなんでしょうかね。いや、想像すると、楽しい。
このブルーシートを被せられている発掘現場も、来月には埋め戻され、縄文遺跡は再び悠久の眠りにつきます。