高坂橋は、ここに〔7762〕2024/07/16
2024年7月16日(火)晴れ!
さあ。そろそろ梅雨明けでしょうか。クマゼミの声が喧しい季節になりました。今日は午前中、高知工科大学永国寺キャンパスに用事があって、市内へ来てます。夏の高知城周辺。いいね。一昨日昨日の連休も、たくさんの観光客さんで賑わってました。外国人観光客、増えたねー。増えた。
ここは、現在の住居表示で言えば丸ノ内二丁目。高知城の北側、江ノ口川と高知城の間。この変哲もない道。実は、ここが「高坂橋」でした。江ノ口川の流路が付け替えられるまで。
1933年(昭和8年)の地図を見ると、江ノ口川は既に付け替えられてて、まっすぐな流れになっています。ここが、高坂橋。ところが1907年(明治40年)の地図をみると、こんな感じ。高知城の西を北上して右折、東へ流れてきた江ノ口川は、現在の高坂橋のところで直角に右折、すぐに左折して東へと流れていたのでした。大正の頃までは。元々の大川の蛇行地形を利用した流路だったのでありましょう。
この、高坂橋の北側を見ると、なんと地図記号は桑畑だ。大正期、ここは桑畑だった。その南を回り込むように流れていた江ノ口川。
高坂橋のすぐ下流に目をやると発電所の地図記号。そう。ここに、高知で最初の発電所「大川筋火力発電所」がありました。作られたのは1897年(明治30年)。電灯700戸分の電力をまかない、土電の電車を開業させる原動力となった、大川筋火力発電所。しかし、電車の路線が延伸すると電力が足りなくなり、以前にも書いた甫喜ヶ峰疏水による平山水力発電所がつくられた、という歴史。
では、大川筋火力発電所はいつまであったのかと言うと、1925年(大正14年)だ。まあ、こんな場所に公害対策も施してない火力発電所ってのは、なかなか厳しかったでしょうな。
そのタイミングは、ひょっとしたら、江ノ口川の流路付け替えのタイミングだったのかも知れないね。流路付け替えで発電所の敷地がなくなり、役割を終えた火力発電所は廃止になったのかも知れません。
火力発電所廃止と言えば、土佐発電株式会社土佐発電所。以前、見学させて頂いたことがあって、このにっこりでも紹介しました。その火力発電所が、今年度いっぱいで事業終了というニュースをこないだやってました。約22年間の火力発電所は、大川筋火力発電所の28年間よりも短かったのね。ご苦労様でした。
土佐史談会では、こんな歴史散歩も企画してますので、ご興味があれば、ぜひ。
さあ。今日も暑いね。仕事仕事!