福井、鹿持雅澄、本歌取り〔7729〕2024/06/13
2024年6月13日(木)晴れ!
良いお天気。暑いねー。梅雨入りしてからずっと良いお天気が続く、高知。まあ、そんなもんだ。
ここは高知市福井。中世以前から「福井村」。久万川支流、紅水川上流域に古くからある農村。今はこんな感じの住宅街が広がる福井。やけど、1960年代はこんな感じで、高知城下郊外ののどかな田園地帯であった、福井。
現在の住居表示では福井扇町でしょうか。昭和58年、福井町から分かれて福井扇町になったようです。写真は、この十字の場所。小高い丘の南斜面。この土地は高知市が所有する、鹿持雅澄邸跡地。藩政期後期に活躍した国学者、「万葉集古義」という仕事で知られる鹿持雅澄さんのお屋敷が、ここにあったのでした、。発掘調査も行われてて、どんな家だったのか、なんとなくわかっている鹿持雅澄邸。
鹿持雅澄さんのご先祖は、飛鳥井曽衣さん。あすかいそえ。大津の山に墓所があり、以前、紹介したこともあります。飛鳥井家は藤原北家という名門の出で、蹴鞠の家として有名でした。戦国期、貴族同士のつながりということで土佐一条家へやって来た飛鳥井曽衣さんは、最終的に長宗我部元親さんに蹴鞠を教えたりしてますね。どんな経緯で福井に住むようになったのかは知らんけど、その子孫は白札格の上士となり、国学者鹿持雅澄が生まれたのでした。
福井の邸跡、実は、迂闊にも今回が初めての訪問。ここにあるのは知っちょったのにね。迂闊でした。夏草に覆われて、なかなかいい風情となってました。この歌碑は、1991年、鹿持雅澄生誕200年を記念して建てられた歌碑。先立たれた奥様への挽歌。鹿持雅澄の奥さんは、武市瑞山のお母さんの妹。叔母になる訳で、その国学思想は瑞山に影響を与えたかも知れません。
愛妻家で有名だった鹿持雅澄さん、高知城や大山岬にも「愛妻の碑」があります。
で、この邸跡の歌碑に刻まれた短歌は。
わかき子の 乞ひ泣くごとに 吾妹子が かきなでしくし 忘らえめやも
哀しいねー。実はこの短歌、万葉集に収録されている柿本人麻呂の歌の「本歌取り」。妻を愛した柿本人麻呂さん、妻の死を悼んだ多くの歌をつくっており、その中に
我妹子が 形見に置ける 若き児の 乞ひ泣くごとに 取り与ふ 物しなければ・・・・
といったものがあって、雅澄さんは、これを本歌取りしておられます。さすが万葉学者。
かつて田舎の農村地帯であったこの場所も、今は住宅街の中。こういう場所が残されているのは、いいね。なんか、短歌でも捻ってみたくなりました。でも、僕には素養が無さ過ぎて・・・