紺屋町から帯屋町へ〔7714〕2024/05/29
2024年5月29日(水)晴れ!
まさに、台風一過のような良いお天気の、朝。昨日は降りましたねー。台風みたいなお天気が昼過ぎまで続き、夕方から晴れた高知県地方。初夏の爽やかな青空が広がる朝。
昨夜は街に出てました。で、自転車を置いて帰ったので、今朝、取りにやって来ました。ここ。この場所から西向いて撮影。左手は帯屋町アーケードと高知大丸。ここが帯屋町であることは、高知市民にとっては常識だ。
しかし。藩政期の地図を見るとちょっと様相が、違います。
僕が立っている場所は、紺屋町。紺屋町の通りを東から西へ進むのがこの右手の通りで、軽トラが停まっている盛り上がりのところにあった「土橋」で堀川を渡り、堀川西岸で武家屋敷に突き当たって左折、すぐに右折したところから始まる道が、帯屋町。
そう。帯屋町は、大丸の西を流れていた堀川の西から始まっていたのでありますね。戦前の高知市街図を見ても、この大丸前の道は、ありません。電車道から現在の壱番街の道を西進した道は、この右手の道になり、土橋を渡って突き当たり、左折、右折して帯屋町。
この左手の大丸前の道ができたのは、戦後になってからでした。戦争で焼けた後、壱番街から帯屋町へまっすぐつながる道になったのでした。今のこの風景からは、なかなか想像できんけど。
想像できんと言えば。
以前は、あの、大丸前を小学生がこちらに向かって登校してくる風景も存在しませんでした。土橋が架かっていた堀川の向こう側は郭中で、上級武士の住むエリアで、そして僕が通った追手前小学校の校区。
堀川からこちらは下町で、新堀小学校の校区。あの小学生たちは、かつての追手前小学校校区から新堀小学校校区へと歩いてきているのでした。
追手前小学校が閉校となり、新堀小学校の場所の「はりまや橋小学校」に統合されたのは今から11年前のこと。旧追手前小学校校区の子供たちが、こうやって大丸前を東へ登校する風景は、11年前まではあり得なかった風景。
こうやって風景は変わり、世の中が変わってゆく。
右手の道の突き当たりにあった居酒屋のビルが取り壊されました。何ができるんだろう。弘化年間の絵図を見ると「大之見」さんという武家が住んでいた場所。掘り返したら、いろんなものが出てきそうな場所やけどね。