山の風景〔7704〕2024/05/19
2024年5月19日(日)雨
今日は、午前中用事があったのと、午後からしっかり雨が降る天気予報だったので、お昼から走りました。雨中南嶺RUN。大橋通りから駆け上がって筆山、そして鷲尾山へ。雨の南嶺を歩く人は誰もおらず、大自然独り占め。新緑の山、マイナスイオンたっぷりの森を堪能してきたのでした。
写真は、ここ。深谷と吉野を結ぶ道と、鷲尾山登山道が交差するところ。かつて、山が生活道であった時代の交通結節点。この十字路から深谷方面を撮影しました。
ここが直線状の谷になっているのは、仏像構造線によってできた谷だからだと思われます。この谷より北は秩父帯で、南は四万十帯。なので、筆山からこの谷にかけてはチャートが多いけど、ここから突然砂岩優勢になるのが仏像構造線を感じさせてくれるて、楽しいね。
雨の仏像構造線。左右の、マイナスイオンたっぷりの森が、実に気持ちがいいねー。ここから一気に鷲尾山を駆け上がると、心臓バクバクで、この上なく苦し心地良いのでした。
この左手の森、よく見ると、石積みがあって段々畑みたいになっていることがわかります。今はこんな感じの杉林やけど、かつては畑でした。
1960年代の航空写真を見ても、ここが畑だったことが見て取れますね。この十字の場所が現在地。ここから東へ下る谷の北側斜面は、畑だ。
筆山からこの谷に至る山々。1960年代という、僕にとってはほんのこないだと感じるくらいの時代には、畑や草地の多い山だったのだ。ここが高見山。現在、樹々が生えていない草地の山として存在感を放つ高見山(皿ヶ嶺)は、毎年人為的に焼かれていたこともあり、今よりもずっと、草の山。そして高見山だけではなく、筆山の東斜面や、高見山から西へ下っていった斜面なども全部、畑か草地。
現在鬱蒼とした森の中にあるお墓の数々は、ほんのこないだまで、見晴らしの良いお墓だったのだ。
たった半世紀ちょっとで、山は、こんなになりました。かつての南嶺、里山の貴重な姿を今に残すのが、高見山なのでしょう。ほんのこないだまで、あの姿が里山のスタンダードだった。
そういう風景を知る世代がいなくなり、いわゆる「森林飽和」の現在の山の姿が当たり前になる。それも、人類の歴史の中では、ほんの一瞬のできごと。
仏像構造線ができたのは数千万年前。そして断層運動をするなかで、今の南嶺がかたちづくられる。気候変動の中、植生も大きく変化しながら風景を変えてきた、南嶺。
人類の手によって森林が草地や畑に変えられ、そしてまた森林になっていく時間は、山にとっては一瞬のできごと。僕にとって、ここが畑で、土佐塾高校のところに茶畑があり、鷲尾山の北斜面は灌木しかない見晴らしの良い斜面だったのは、ついこないだのこと。