長岡友久さんと大ちゃんと捕鯨砲〔7695〕2024/05/10
2024年5月10日(金)晴れ
良いお天気。朝は少し肌寒いくらいの爽やかさ。
今朝、高知新聞を開くと、長岡友久さんのことが大きく取り上げられてました。そう。ご存知4代目朝潮太郎、長岡末広さんのお父様。
長岡末広さんの訃報は、去年の11月。まだ若かったのに、残念なことです。愛すべき大ちゃん。大ちゃんのお父様は、室戸市佐喜浜で漁師をされており、ホエールウォッチングもやっておられた方。現在、御年92歳でお元気ですねー。
14歳で海に出て、24歳から極洋捕鯨に入社し、捕鯨船の砲手として成長、日本の捕鯨最盛期に活躍した長岡友久さん。捕獲頭数日本一になったこともある、捕鯨砲の名手。生涯捕獲頭数は4000頭。しかし捕鯨が斜陽化するとともに引退して室戸へ戻り、小さな船を購入して漁師となったのでした。
その船につけた名前が「末広丸」。
「大(末広さ=朝潮太郎)が大関になるときでね。『大、お前の名前を使うぞ』と」
と、インタビューに答える友久さん。家でも大ちゃんだったんだ。
長岡末広で朝潮太郎。なんで「大ちゃん」なのかは謎やったけど、この話から、家でも「大ちゃん」と呼ばれていたことがわかります。身体が大きかったからでしょうかね。愛すべき、大ちゃん。朝青龍騒動の際、師匠、親方としてテレビに登場していた大ちゃんは、その飄々としたキャラクターで、ピリピリした場を和らげていた記憶が蘇る。あの場面、大ちゃんだから収まった、と、僕は今でも思っています。
その「末広丸」でホエールウォッチング」もやってました。佐喜浜で「鯨オッチング」の看板を見つけたのも、その、朝青龍騒動があった翌年、2008年のこと。もう、16年前になるのか。
ここは、弘化台。この、四角い場所。以前にも幾度かご紹介した、ミロクさんの捕鯨砲試射台があった、小さな四角い島。この島、ミロクの試射台があったのは昭和21年から昭和47年のこと。しかし藩政期の頃から存在していたようです。僕は、弘化台と同じように、幕末の世相の中で整備された台場のようなものだったかも知れない、と書いたけど、こんな考察をしているページもありました。なるほど。「吸江図絵」、今度見てみなくっちゃ。
ともあれ、ここで試射し製造された捕鯨砲、長岡友久さんも使っただろうか。そんなことを思いながら、記事を楽しく読ませて頂いたのでした。高知新聞、Good Job!