仁淀川、鏡川、国分川、物部川の、浦戸湾〔7678〕2024/04/23
2024年4月23日(火)雨
昨日書いた古仁淀川の話、実に興味深いので、今朝もまた。興味、ないですか?
かつて、仁淀川は、現在の伊野の市街市から枝川を抜け、咥内を通って朝倉で今の鏡川と合流し古浦戸湾へと流れていた、という話。
つまり、今の宇治川は古に淀川の痕跡で、かつては西から東へ流れていた訳だ。そこで、現在の標高を地理院地図で確認してみよう。
仁淀川が枝川の方へ流れるとすれば、紙の博物館界隈を通るでしょうか。その標高は約16m。枝川界隈の標高は、ほとんど同じだ。現在でも、川が西から東へ流れてもおかしくないような標高。だから、枝川界隈は水害が発生しやすく、宇治川放水路がつくられたりした訳ですね。
咥内坂のてっぺんの標高は、27m。そして東へ行って朝倉駅前は12m。咥内坂が隆起したものだとすれば、伊野ー枝川ー咥内ー朝倉の流れは全然不自然ではないね。
いや、ひょっとしたら宗安寺への流れもあったかも、知れない。そちらの峠は標高50m。それくらいの隆起は、地質年代で見ればアッと言う間だ。
では、何故、咥内坂は隆起したのか。
素人なりに妄想しました。このフィリピン海プレートの方向転換、真北から少し西に向きを変えたことにより、東から西向けての圧力がユーラシアプレートに加わることで、南北にシワができる。このメカニズムの影響かも知れない、と、僕は考えたのであります。そう。塩飽諸島やしまなみ海道の諸島ができたメカニズム。
その、東から西への圧力により、咥内のあたりが隆起。同時に、シワシワの谷になった部分が現在のに淀川の流路となった。そういう物語だ。
すると、物部川の流路変更にも同様のメカニズムが考えられないか。北東から南西へ流れて浦戸湾に流れ込んでいた物部川が、シワシワの谷となって沈降した現在の流路へ南流するようになり、太平洋へ直接流れるようになった。そういう物語だ。
写真は、今朝の、その分岐点と思われる戸板島。ここで現在の物部川は、南に流路を変えているけど、かつてはここをまっすぐ南西へと流れていた。のかも、知れません。
仁淀川も物部川も国分川も鏡川も、全部流れ込む浦戸湾。想像するだけで、なんか、すごい。山から流れ出してくる大量の土砂は高知の平野に堆積し、盆地のような扇状地を形成しただろうか。出口が狭いから。そこは大雨のたびに氾濫原となっただろうか。
雨は、人を思索にふけさせると言うけど、僕の場合は妄想に耽ってしまうのでした。