仁淀川と宇治川と咥内坂と鏡川〔7677〕2024/04/22
2024年4月22日(月)小雨
よう降るねー。シトシトと降り続ける春の雨。今朝4時半、本社棟2階から、西の方角を撮影しました。眼前の田んぼが、少しづつ緑になっていく季節。いつもは見える潮見台の灯りも、今朝は霧の向こう側。
この目の前の集落は「咥内」。こうない。以前、その地名の由来について考察したことがある、「咥内」。中世から「咥内島村」と呼ばれ、物部川の流路に挟まれた「河内島村」が「咥内島村」になった、という説をご紹介してます。
で、県下にはもうひとつ「咥内」があって、それは朝倉と枝川の間の「咥内」。朝倉からの峠を上っていく坂を「咥内坂」と言いますね。その「咥内」は、どうやら「神内」。朝倉神社の神域であったことから「神内」で、それがいつしか「咥内」になった、という説も、書きました。
で、今朝は、その朝倉と枝川の間の「咥内」についての話。
一昨日の夜、幾度か一緒に飲んだことのある地質の専門家Tさんと、飲んでました。お土産に珍しい石を貰ったりして、楽しい時間を過ごしたのですが、その話の中で、仁淀川河口の話題になったのでした。
通常、物部川とか四万十川のような大きな河川の場合、河口から沖に向かって、海底に河川の続きのような堆積が見られるのに、仁淀川にはそれがない、という話。そして、地質の専門家の間では有名らしいけど、太古の昔、仁淀川は伊野から枝川、そして咥内を通って古浦戸湾へと流れていた、という話になったのでした。すごいね。咥内坂の東と西の地質が同じ河川のものであるらしいという考察からきた見解、らしい。
この地質図だけでは、ちと、わからない。でも、数十万年、数百万年という単位で見たら、それくらいのことは簡単に起こり得る話だ。
と、言うか、この地図を見てみると、プレートの沈み込みによる東西方向のシワシワに鑑みて、仁淀川は、伊野から鏡川へとつながる方が自然だ。一目瞭然。この地図でも。
それが、何らかの理由で咥内坂の界隈が隆起し、仁淀川は行き場を失って南流、今の流路になった、というのは非常に説得力のある話。
仁淀川、宇治川、鏡川は、一本の川として西から東へと流れていた、そんな風景があったのだ。
以前、古物部川も、介良を通って古浦戸湾へ流れ込んでいた、という話を書きました。つまり、物部川も仁淀川も、全部流れ込んでいた浦戸湾は、大変な氾濫原だったのかも知れませんね。
いや、またまた勉強になりました。世の中、知らないことだらけ。