鈴ヶ森刑場遺跡〔7639〕2024/03/15
2024年3月15日(金)晴れ
まだ東京。今日、Jetstarに乗って帰高します。今、成田空港。コロナも明けて、外国人観光客さんが大井成田空港。善き哉善き哉。
昨夜、業界の寄り合いの後、1人で大井町へ飲みに出掛けてました。知る人ぞ知る、昭和の路地が今に残る大井町。いやー、楽しかった。以前、京成立石とか溝の口西口商店街とかを探検したけど、大井町もなかなかでした。せんべろの立ち飲み屋さんからスタートして、3人も入れば満員の立ち飲みカラオケスナック、そして5人座ったら満席のカウンターだけのカラオケスナックで昭和歌謡。久々に昭和を満喫した夜でした。東京にも、まだ、僅かながらそんな街が残っているのは、嬉しい。
そんな訳で、今朝も大森界隈をたつくってきました。今朝の目的地はここ。鈴ヶ森刑場遺跡。
旧東海道、品川宿から南へ歩くと、立会川を、浜川橋という小さな橋で渡ります。別名泪橋。あしたのジョーじゃないよ。この泪橋は、鈴ヶ森処刑場へ向かう罪人が、身内との最後の別れの場になったことから呼ばれるようになった、名前。哀しいねー。泪橋から鈴ヶ森処刑場までは、約700m。徒歩10分。処刑される罪人は、最後の時間をここで過ごしたのでした。
鈴ヶ森処刑場が開設されたのは慶安四年(1651年)のこと。東海道に面しており、江戸へ入っていく人にとっては、品川宿の手前の入り口に位置します。ウィキによりますれば、当時増加していた浪人たちに、警告を与える意味もあって、この場所に設置されたという説も。今はこんな感じで、東京都指定の遺跡となってて、誰でも近寄ることが、できます。
中央部に、南無阿弥陀仏と刻まれた大きな花崗岩。側面に刻まれているのは普賢経の「一切業障海皆従妄想生」。全部、妄想から生まれるのである。なるほど。
鈴ヶ森で最初に処刑されたのは、由比正雪が幕府転覆を計った「慶安の乱」の首謀者の一人、丸橋忠也とされてます。最後の処刑者は、明治四年(1871年)に処刑された渡辺健蔵。彰義隊士。その間、約20万人が処刑されたというからすごいね。そんな場所が、供養する為の大経寺とともに残っているのもムベなるかな。20万人ですきんね。
その中には、有名な「八百屋お七」もいますね。八百屋お七の哀しい放火事件は、ぼや程度でおさまった訳やけど、放火は死罪。少女お七は、ここで処刑されたのでした。
僕が向いている方向の下に、凝灰岩でできた台石がふたつ。右側の台石は火炙台。真ん中には丸い穴があいていて、そこに鉄柱が立てられ、火炙りの刑が執行されたそう。放火の罪人は、火炙り。なので、八百屋お七は、この火炙り台の上で処刑されたのでした。
左側の台石は、磔台。真ん中に四角い穴。その角穴に角柱が立てられ、その柱に縛り付けられた罪人が刺殺された、とのこと。こわいねー。
最初に磔刑となったのが、上に書いた丸橋忠也。この人物、諸説あるけど、長宗我部盛親の庶子であった、という話もありますね。
そんなこんなの歴史を鑑みながら、鈴ヶ森刑場遺跡を後にしました。