モース、魅惑のワンダーランド〔7638〕2024/03/14
2024年3月14日(木)晴れ
そんな訳で、東京。昨日の午後、Jetstarに乗ってやって来ました。高知成田のJetstar。ほぼ満席。人の動きも活発になってきたねー。通常のJALとかANAとかのパック料金が、日にはよるけど、すさまじく高騰してきましたね。これからの出張には工夫が必要。
そんな訳で、今朝は大森。JR大森駅から北へ少し行った、東海道線を渡る歩道橋の上から撮影してみました。京浜東北線が走っているすぐ横の緑地。あそこが、大森貝塚遺跡公園。朝9時開園なので、今はまだ閉まってて、入れません。どうやらあそこが、モースが明治10年に汽車の窓から発見した貝塚の場所。
実は大森貝塚、その貝塚であることを示す碑が2ヶ所あります。ひとつは、その向こうの緑地にある「大森貝塚」と刻まれた碑で、昭和4年11月に建てられました。もうひとつは、そこから南300mほどの場所に立つ「大森貝墟」と刻まれた碑。昭和5年建立。これ。
二つあるのは、モースが、その発掘場所を論文にキチンと記載していなかったことが発端。しかも報告に「大森村」と書いたことで、事態をややこしくする。後年の研究で、実際はあの緑地の場所が発掘地点だったことがわかってます。現在は品川区で、当時は大井村。「大森貝墟」の場所は現在の大田区で当時は「大森村」。モース君がちゃんと科学者らしく正確な報告書を提出しておれば、ひょっとしたら「大井貝塚」という名前になっていたのかも知れんけど、どうでもいいですか?
まあ、最寄りの駅は東海道線の大森駅。大井町駅からは、ちと遠いね。
ちなみに大森貝塚から最初に出土したのは貝片の他、土器、骨器、獣骨。その後、土偶や石斧、そして人骨片まで発見され、なかなか貴重な遺跡となりました。貝片はカルシウムでできておりアルカリ性。なので骨も溶けずに残ったのでしょう。
モースにしてみれば、考古学が始まっていない土地というのは、とてつもなく魅力的だったでしょうねー。もし僕がモースでも、そうだ。上陸して最初に乗った汽車の窓から、地元の人は何も知らないけど自分だけが知っている貴重な遺跡や遺構がみつけられるのではないか、と、目を皿のようにして眺めていたんだと思う。貝辺が積み重なった「貝塚」は、そんな意味で、とてもわかりやすい遺跡だったのかも知れません。
ちなみに。ウィキによりますれば、かのシーボルトの息子、ハインリヒが、自分が最初に発見したと主張している話も載っています。どちらにしても、当時のヨーロッパで博物学に興味があった知識人にとって、考古学といった西洋の学問が始まっていない日本や、魅惑のワンダーランドだったことは、容易に想像できます。
横浜から新橋へ向かう鉄道が走ったのは、この、更新世段丘の崖下。京浜東北線の電車はアッという間に通り過ぎていくけど、日本の考古学は、ここから始まったのでした。