芸予地震と日露戦争〔7629〕2024/03/05
2024年3月5日(火)雨ぞな
昨日の午後、高速バスに乗って松山へ。諸々の情報交換など、有意義な時間を過ごした大街道。で、今日は広島で仕事なので、瀬戸内海汽船の「クルーズフェリー」というのに乗ってます。初めての「クルーズフェリー」。
松山から広島、と言えば、高速艇の「スーパージェット」を思い浮かべると思います。僕も、幾度か乗ったこと、あります。「スーパージェット」は、松山観光港と広島港(宇品)を1時間10分で結ぶけど、「クルーズフェリー」の所要時間は2時間40分。広島へはあまり急がないのと、ゆっくりパソコン仕事をしたかったので、フェリーにしました。いいねーフェリーは。広々してるし。
僕ら太平洋岸に住んでいる人間にとっては、広い海にところどころ島が浮かんでいる、というイメージがあるかもしれない瀬戸内海。確かに、燧灘とか伊予灘とかといった、島が少な広々としたエリアもあるけど、塩飽諸島とか芸予諸島とかしまなみ海道の界隈は、密集する島の間を海が「流れている」という風情。太平洋は荒波が航海の障害になるけど、瀬戸内海はこの島々の間の潮の流れが難敵で、航海には熟練の技術と経験が必要とされてきた訳だ。だから、瀬戸内海航海の専門集団が、長い長い期間、隆盛を誇ったのでありましょう。
この界隈の地質図は、こう。こうやって見ると、伊予の高輪半島と周防大島、その西の半島が同じような地質であることが見えますね。東西に伸びる地層は、フィリピン海プレートの沈み込みによるものだと想像できます。
南海トラフでのフィリピン海プレートの沈み込み角度は、東日本大震災を発生させた太平洋プレートの北米プレートへの沈み込み角度より浅くて、この芸予諸島では、フィリピン海プレートは約50kmの深さを沈み込んでいる、とのこと。そして、この界隈から急激に角度深く下降しており、そのことによって地震が発生することがあると言われてます。知られている所では、明治38年と平成13年の「芸予地震」。震源が深いので、マグニチュードの割には被害は少ないと言われているけども、もちろん油断はなりません。地球は、まだまだわかっていないことだらけ。
明治の「芸予地震」が発災したのは、明治38年6月2日。このフェリーの目的地である宇品港は、日露戦争の兵站輸送の最前線となっており、呉には海軍鎮守府もありました。そして重要なのが、この発災日付。明治38年6月2日。
かの、日露戦争「日本海海戦」は、明治38年5月28日から29日にかけて、繰り広げられました。当然、多くの兵が負傷し、呉鎮守府の海軍病院に運び込まれたのでした。そこに発生したのが「芸予地震」。海軍病院には多くの地震被災者も運び込まれ、呉海軍病院は大混乱だった、との記録が残っているそうです。
これも、天災は人間の都合など関係ない、という事象のひとつでしょうか。
雨の瀬戸内海は、平和に静かに広がっていました。風が寒いけど。
さあ、広島港に着いたら広電に乗って市内へ。仕事仕事!