土左大神、一言主神、そして礫石〔7616〕2024/02/21
2024年2月21日(水)小雨
今日は一宮方面に用事があって、来てます。一宮。いっく。雨の一宮。
その地名は、土佐一ノ宮である土佐神社に由来。そのお宮さんの初出は日本書紀で、都佐国造の祀る「土左大神」でありました。そのご祭神が、「一言主神」「味鋤高彦根神」となっている初出は、奈良時代編纂の「土佐国風土記」で、それ以来土佐高賀茂大社とか高賀茂大明神とか呼ばれてきた歴史がある土佐神社。
で。平安初期に成立した「続日本紀」には、雄略天皇が葛城山に出向いて猟をした際、出現した老父と獲物を奪い合い、怒った天皇が老父を土佐に流してしまったという逸話が紹介されてます。その老父は、賀茂氏の祖先神「高鴨の神」だったとわかり、大和葛城に戻された、という話。
鎌倉末期成立の「釈日本紀」では、土佐に流された一言主神が、奈良時代になって賀茂氏の申し出で大和葛城に戻され、その和魂だけ土佐に留まった、と書かれているそうです。一言主神は、最初に「賀茂の地」に至り、のちに高賀茂の社に遷座した、ともあります。
これはもう、土佐神社のご祭神の変遷の話だ。最初は地元の神、「土左大神」。そこにやって来たのが、何らかの事情で土佐へ流されて来た賀茂氏の有力者。で、賀茂氏の神様、一言主神、味鋤高彦根神を祀ることとなった。時期は、日本書紀と土佐国風土記の間。たぶん、そういうこと。
では、最初に流された「賀茂の地」はどこなのか。それは、鳴無神社である、という説があります。浦ノ内の鳴無神社。おとなし神社。
鳴無神社の社伝では、雄略天皇に流された一言主神がその地に流れ着き、そこに神社を造営したのがはじまり、とされてます。で、一言主神は、そこから大石を投げ、その石が落ちたところに、新たに宮を建てて遷座することにした、という話。それが、このチャートの巨岩。その名も「礫石(つぶていし)」。
その礫石の前に立てられている説明版には上記のような内容が書かれ、最後に、こう。
「この地は蛇紋岩の地層なるに、このつぶて石は珪石で、全然その性質を異にしており、学会ではこの石を転石と称し学問上特殊の資料とされている」
なかなかミステリアスな描き方になってますねー。学会も認める不思議だ、と。確かに地質図を見ると、この十字の場所の土佐神社は蛇紋岩地帯。チャート(珪石)は、ここだ。しかし高知では、地質図ではこうなってても、あちこちでチャートは見かけます。土佐神社境内にも、たくさんのチャートがあります。鳴無神社だって、地質図ではチャートではないし。ただ、確かにこの巨岩、根は生えてないようにも見える。どこかから持ってきたみたいにも、見えるんですね。さあ。真相やいかに。