車谷〔7575〕2024/01/11
2024年1月11日(木)晴れ!
今朝は秦泉寺に用事があったので、こないだたつくった三谷往還の登り口を撮影してきました。ここ。金谷川に架かる鎌研橋から少しだけ上ったところ。ここに、以前には人が住んでおられ、今は無住となっている立派な家が、あります。ここは、「車谷」。
道の途中が崩落し、改修されることもなく放置されて荒れ放題になっている三谷往還が通る谷は「車谷」。秦史談会が発行する「秦史談」215号では、この車谷を踏査した記録が掲載されています。今日は、その内容から。
「車谷」という名称は、明治期、この谷に11基の水車があったから。上から水を掛ける方式の、上掛式水車。その水車の用途は、乳幼児用の米粉を挽くのが主で、他に、米麦のなどの製粉、精白、菓子原料の製造などを行っていたんだそう。あと、車谷には紙漉き工場が10ヶ所あって、それにも使われていたという水車。しかし明治期に、その多くは廃絶して大正10年には3基になり、昭和51年、この谷に大水が出て廃絶されるまで、最後の1基が動いていたとのこと。
写真の家が、その、最後の1基の水車が動いていたという永野家。今も、往時の面影が残る、素敵な佇まい。かつて、賑やかな営みがあった、車谷と三谷往還。三谷集落の子供達が、歩いて秦小学校に通っていた道。
豪雨による崩落で通行止めになったのが2014年夏のこと。それ依頼、年々、荒廃が進んでいる車谷。それまでは、北山ハイキングルートのひとつとして、歩きやすい山道が三谷まで続いていたのに。
40年の歴史を誇る「秦史談」215号には、「秦史談」17号に掲載された座談会記事の内容が紹介されています。昭和61年5月に発行されたもの。そこには、こう書かれています。
竹崎「三谷へ行く旧道、良くなってますねえ。」
浜田「あれは三谷喜代次という人が、直してくれています。たった一人でずっとやっています。ああいう人こそ、何かの時に市役所で表彰してもらいたい。十年も二十年も道直しをしていますが、半日ばあやっては帰ってきて、自分の畑をやっている。感心します。隠れた、真面目な人ですからねえ。」
この頃三谷喜代次さんは70歳。こういった先人のお陰で立派に保たれてきた、車谷の道。その後、恐らくは公共の手も加わって、北山ハイキングコースのひとつとして親しまれてきた、車谷の道。
三谷観音につづく、西国三十三観音霊場の道でもある車谷には、順番にたくさんの石仏が鎮座していましたが、そのいくつかは、土砂崩壊などで見当たらなくなっています。崩壊前、全部お参りして写真撮っておいて、良かった良かった。
往時の賑わいを感じさせてくれるのは、この、永野家住宅だけになりました。このまま荒れ果てていくのは、忍びないねー。三谷喜代次さんのせっかくの思いと努力が、もったいない。
そんなことを思う、車谷の、朝。