デパートメントストア宣言、三越、やなせたかし〔7553〕2023/12/20
2023年12月20日(水)晴れ!
今日は12月20日。年の瀬。年の瀬になると、商店街とかデパートとか、ものすごい人出で賑わっていた、僕の子供時代。年末の大橋通りとか、親と手を繋いでないと完全にはぐれてしまう、輪抜け様のような賑わいでした。
コロナで静かになっていた年の瀬も、今年は賑わっているでしょうか。
デパートと言えば、ネットを調べると、1904年12月20日、日本橋に三越呉服店が創業し、「デパートメントストア宣言」と記した挨拶状を顧客に発送して、日本のデパートが始まった、とされてます。119年前の、今日。日露戦争真っ最中の年の瀬、日本橋三越が始まったのでした。日本のデパートが、始まったのでした。
その時はまだ、土蔵造りの、いかにも呉服屋さんといった作りやったみたいやけど、1908年には、イギリスのハロッズを手本とした木造3階建ての洋館ができて、屋上庭園もあった、とのこと。
その後、1914年9月に、鉄骨構造5階建ての本店新館が日本橋大通りに面した場所に竣工。いかにも百貨店、という外観の、日本の新しい文化が始まっております。
ただ、その頃はまだ、正面玄関で履き物を預けて入店、退店の際に下足室で受け取って外へ出る、というシステムだったそうで、外国人はビックリしたでしょうねー。日本初のエスカレーターが設置されたのも、その建物。時代の最先端を走る三越百貨店やった訳だ。
その後、関東大震災や第二次世界大戦をくぐり抜け、戦後へ。その間、大東京はどんどんと巨大化していき、その中心にあったのが、三越百貨店。
戦後。
昭和22年、高知新聞社を退職して上京してきた青年が、三越宣伝部の入社試験を受ける。そう。我らがやなせたかしさん。やなせさんの自伝「アンパンマンの遺書」には、戦後間もなくの荒廃した三越店内の様子が描かれてますね。日本橋本店に新設された宣伝部で、店内の装飾とか看板のデザインとかを手掛けていた、やなせさん。なかなかに生意気で反抗的で自由気ままな社員だった、と、述べておられます。なるほど。復興需要が高まり、宣伝部の仕事はどんどんと増えてゆき、やなせさんは、包装紙のデザイン一新を担当する。そして、かの、猪熊弦一郎先生に依頼したデザインが出来上がったのを柳瀬担当が取りに行き、「MITSUKOSHIという文字はそっちで描いてね。場所は指定してあるから」と画伯に言われたのでした。担当なので仕方なく書いたのが、現在も使われている三越の包装紙のデザインにあるMitsukoshiロゴ、という話はこないだも書いたっけ。
そんな訳で、若き日のやなせたかしさんは、戦後復興期に消費を牽引した三越日本橋店で、その活躍の素地を創り上げていったのでした。百貨店は、時代を写す鏡だった。そんな時代。
ここまで書いて、今朝の高知新聞見たら、一面の「小社会」に、1904年12月20日に日本で最初のデパートができた話が書かれているではないか。僕と高知新聞は、なんか、時々シンクロしてしまうのでした。
写真は、今朝、後免町停留所に停車中の電車。やなせたかし記念館によるラッピング電車。偶然、遭遇しました。電車は毎日毎日ローテーションで動いていくので、いつ、どのデザインの電車がやってくるのかはわからない。なので、ラッキーでした。
再来年の「あんぱん」時期には、少なくとも、アンパンマンラッピング電車は、毎日同じ時間に同じコースを走るようにして、観光客さんにも喜んでもらうようにして欲しいね。車内はアンパンマンの装飾で、アンパンと牛乳販売したらいいねー。
やなせさんが勤務した日本橋三越では、早速、「あんぱん」に向けた企画を考えているようです。高知も負けてはいられない。まずは、みんなで妄想しませんか?