土佐の南北朝と佐伯文書〔7552〕2023/12/19
2023年12月19日(火)薄曇り
今朝は、昨日よりはかなりヌクいけど、日中の気温は上がらず、寒い1日となる予報。年末を迎え、皆様忙しく過ごされていることと思います。なんか、久々の年末らしい、年末。
さて。昨日、佐伯文書のこと書きました。久々に佐伯文書を読み返してみると、改めて、土佐における南北朝合戦の僕の知識は、佐伯文書によるものだと実感したことでした。もしも偽書だったらどうしよう。
それはともかく、佐伯文書を読むと、北朝方の佐伯経貞が、昨日紹介した深淵城を陥とした後、大高坂山を本拠とする南朝方の総大将大高坂松王丸を攻めあぐねている模様が臨場感たっぷりに描かれています。大高坂山は、もちろん現在の高知城の山。
佐伯軍(堅田軍)の行動を、改めて眺めてみよう。堅田氏の本拠は、昨日も書いたように高岡郡。そこからまず、南へとまわって浦戸を攻める。建武三年(1336年)1月のこと。須崎から送った水軍が、アッという間に浦戸城を陥落させ、大高坂山に威を張る大高坂氏への、海からの援軍、補給を遮断する。すぐさま陸路、香美郡へと進軍して、昨日書いたように深淵城を攻め陥として焼き払い、東からの援軍、補給を断つ。なかなか、理にかなった攻め方をしてますな。
3月16日に深淵城を陥とした堅田軍、北朝軍は、18日に一宮へ進軍して南朝方を蹴散らし、一気に大高坂へ。しかし、西からの援軍河間氏の活躍などで3月21日に退けられ、一旦退却し、持久戦になったのでした。
そこで堅田軍、北朝軍は一旦東へと戻り、4月11日、岡豊の八幡山東坂本で南朝軍に勝利をおさめ、その足で4月26日、岩村城を陥落させる。
つまり、大高坂への攻撃をより確かなものにする為に、東からの脅威を完全に取り除いておこうとした訳やね。そして。
6月中旬から、大高坂山の西、安楽寺に最前線陣地を築く。そこでは、北朝方とのとても激しい戦が展開された、と、佐伯文書には描かれてます。数日間続いた戦闘でも勝敗はつかず、それぞれ退却して戦いは小康状態に。
そのまま迎えた秋、10月15日、堅田軍は西へと進軍し、斗賀野丸山城で、南朝方の援軍河間氏を攻める。これも大合戦となり、10月19日に丸山城は陥落。その勢いで浦ノ内へと軍を進め、10月23日に灰方の神崎城を陥とす。
さて。ここから、南朝花園宮満良親王がやってきたりするエピソードを挟みながら2年が経過し、迎えた暦応二年(1339年)12月3日、堅田軍、北朝軍は大高坂城決戦を再開したのでした。
当然、大激戦となり、一進一退を繰り返す戦況がつづく。翌1月24日、塩絵山(潮江山ー筆山)に布陣していた南朝軍を堅田軍が攻撃すると同時に、別動隊が北から大高坂を攻め、遂に、大高坂松王丸をはじめとした南朝方の重臣は戦死、土佐の南北朝合戦はひとつの区切りを迎えたのでした。
以上が、佐伯文書に描かれた堅田軍の活躍。この文書、堅田経貞が、こんな活躍をしたので褒賞頂戴ね、という意味で書かれたとされる文書なので、当然のことながら堅田経貞大活躍。偽書だったらどうしよう。
前半の激戦、安楽寺の戦いが繰り広げられたのは、当時、安楽寺が所在した升形周辺なんだそう。菅原道真の嫡男、菅原高視さんによって創建されたという安楽寺は、その後、久万に移って盛衰があり、宝永年間に中興された後、明治維新の廃仏毀釈運動で廃寺となり、明治6年、現在のこの地、廃寺となった瑞応寺跡地に、再興されたとのこと。写真は、今朝、未明の安楽寺さん。
そこからの、札所をめぐる争いについては、以前、書いたね。
いやー長くなってしまった。忙しいのに、朝から何やってるんだろう。そろそろ仕事、始めんといけません。