開成館の石積み〔7387〕2023/07/07
2023年7月7日(金)晴れ!
七夕。きれいに晴れ上がった爽やかな朝やけど、こっから天気は下り坂で、今晩の織姫彦星イベントはどうやら見れんみたい。梅雨ですきんねー。
さて。以前、東九反田公園の、開成館の絵図のこと、書いたことあります。2017年に設置された絵図。その図には、慶応二年に建設された当時の、開成館の配置図が描かれてます。昨日、その横の公衆トイレを利用しに行った際、あることに気付いたので、今日は開成館の話。
開成館。幾度か書いてきたように、幕末も幕末、江戸幕府が大政奉還する1年前の慶応二年に、土佐藩によってつくられた開成館。主導したのはもちろん後藤象二郎。当時の土佐藩で、そんなことを考えて実行する能力があったのは、彼しか居ないよね。山内容堂の後ろ盾のもと、旧守派などの反対を押し切ってつくった開成館。
この図にもあるように、6人の奉行の下に11局が置かれた開成館。一番力が入れられたのは軍艦局。洋式汽船などの購入による「蒸気機関学」「航海学」「海軍砲術」「算術測量学」の教育を行いつつ軍艦等の保管と航海の管理を担当、とあります。ここにジョンマンがおらんのが、土佐藩の限界でしょうか。で、その軍艦局を盛り立てる為に、勧業局、貨殖局、税課局などが頑張った訳だ。高知新聞社発行「高知県百科事典」によれば、「強兵」に先導された「富国」を目指すためにつくられた、開成館。
で、昨日気付いたのは、この絵の中の石積み。石積みによって、開成館は二段になってます。開成館は、南は鏡川、北は堀川に面してたとのことで、現在のどこがどこに当たるのか、想像してみました。絵図には松の木が描かれてます。今の東九反田公園にも、その当時からあったと思われる大きな松の木が、立つ。つまり、開成館当時の上段の地面は、現在の公園の地面と同じなのでありましょう。すると、今の、公園北側の道路とマンション界隈が下段。その段差のところに、石積み。
そして絵図を見ると、その石積みは亀甲積みだ。幕末の亀甲積み。思い出すのは新堀川。道路拡張による暗渠化工事で移設された新堀川の石積みは、石灰岩の亀甲積みでした。積まれたのはおそらく幕末の時代。
当時、高知の城下では、石灰岩の亀甲積みが流行っていたのかも知れない。そうすると、この絵図の亀甲積みの石積みも石灰岩だった可能性が、高い。
ただ。この東側、昭和16年に建立された巨大な「憲政之祖国」碑の台座を見ると、チャートの亀甲積みなのである。チャート。そこが、気になる。気になるけど、幕末、段差に積まれた石積みとなると、やはり石灰岩だったのではないかと想像するのでした。どうでもいいですか?興味ないですか?
ともあれ、この絵図の石積みは、痕跡すら残っていないので、今は想像するしかありません。ただ、絵図に書かれた松の木だけが、当時の面影を今に伝えています。そんな、東九反田公園。