堺町、変わる風景を妄想する〔7386〕2023/07/06
2023年7月6日(木)晴れ!
よく晴れました。今日も暑くなりますねー。梅雨明けも、近い。近かったらいいね。
昨日は、上黒岩岩陰遺跡のこと、書きました。14500年前から縄文時代を通じて人々が暮らした痕跡が残る、上黒岩岩陰遺跡。石灰岩の白い巨岩の岩陰。なのになんで黒岩なんだろう。今、気付いた新しい謎。
それはそれとして、昔の人が暮らした痕跡で、その時代の風景を想像するのは、なかなか楽しい。それは、旧石器時代や縄文時代に限らず、近世近代、そしてつい数十年前の風景でも同じこと。
ここは堀詰の南、中島町の通りの交差点。かつて、この南北に水路があり、その水路は松淵川という名前で、西側の逆U字型の池と繋がっていたのでした。藩政期、松淵川を流れて来た水は堀詰で堀川となり、東へ流れて浦戸湾へ。
正保城絵図というのが、あります。正保元年(1644年)に、幕府が、諸藩に命じて作成させた絵図。藩政期初期の、いろんな城下町の様子を見て取れる絵図で、「土佐国城絵図」というのもあって、国立公文書館デジタルアーカイブで見ることが、できます。こんな感じ。
高知の城下町は、こんな感じで建設された、ということがわかりますね。で、幾度も書いてきたように、この、水路が縦横に張り巡らされた城下町は、城下町建設以前の自然地形を活用してつくられたもの、と、想像できます。特に城下町の東側は、湿地帯の間を縦横に小川が流れる、といった風景だったことが、この絵図からも妄想できます。
今朝撮影したのは、お城の下、逆U字型水路から右へ行った水路の突き当たりを少し北上した場所。そこで東に昇る朝日と、堺町界隈を撮影しました。
戦国時代、この辺りには、国沢城というお城があって、国沢将監という武将が本拠としていた、と言います。恐らくは、鏡川の流れによってできた高砂のような微高地があり、そこに築かれていた国沢城。名前からして、国沢ですきんね。周囲を囲む湿地が、自然の防御機能を果たしていたんでありましょう。忍城のように。
山内氏の城下町建設によってその土地は均され、自然の小川は水路として整備されていき、城下町の形ができあがってゆく。
近代になり、武家屋敷は市街地となって、住宅が建ち並ぶ。戦後、市内を縦横に走っていた水路は埋め立てられ、自動車が主人公となり、街は益々賑わいを見せる。
そして。いつしか賑わいは街の中心部から郊外のショッピングセンターなどに移ってゆき、街中の風景には駐車場が増えてゆく。そう。ここ堺町は、この20年で、駐車場の街になってしまった。
数百年後、ここはまた、葦の生い茂る湿地帯に戻り、その微高地に誰かが居館をつくって住んでいるのかも知れない。風景の劇的な変遷を見るにつけ、そんな妄想をしてしまうけど、あながち外れていないのかも知れません。