上黒岩岩陰で暮らした人たちの、その後〔7385〕2023/07/05
2023年7月5日(水)雨
昨日は松山。愛媛県の松山。大街道沿いのホテルに泊まってました。今朝、車で出発して国道33号線を通って帰高。愛媛県側ではほとんど降ってなかった雨も、高知県に入ると降り始め、市街地に降りてくるとかなりの雨脚。梅雨ですきんねー。
写真は「上黒岩岩陰遺跡」。愛媛県久万高原町の、久万川沿いにある有名な縄文遺跡ね。久万川は仁淀川の支流。というか源流のひとつ。ここから南へ流れ下って太平洋へと流れ出す河川。四国山地の険しい山々を開鑿して流れてます。
こんなところに、縄文遺跡。しかも、14500年前という縄文草創期から後期まで、1万年以上の長い長い年月、人々が暮らした痕跡が見つかっている貴重な遺跡。すごいのは、28体以上の人骨が見つかっていること。それは、この巨岩が石灰岩であることに、由来します。
ここの地形はこんな感じで、かなりの山中。ここに、なぜ、1万年もの長期間にわって人々が暮らした痕跡があるのか。現地に建てられた説明板には、その理由がいくつか、こんな感じで考察されてます。
縄文人はイノシシやシカの肉を珍重した。これらの動物はナラ、クヌギの実や若芽を好物とする。人間もクリ、ナラ、クヌギ、トチ、ムクなどの実を食べた。こうした植物は暖かい四国では、だいたい海抜400m以上の土地でないと野生しない。dかあら、イノシシやシカは好きな木の実の多い高地に住みついた(遺跡の位置は398m)。では上黒岩遺跡に永住したのはなぜだろうかを考えてみる。
(1)雨露を防ぐのに理想的な岩陰である。
(2)南向きで日当たりがよい。
(3)すぐ下に川があり水の便利がよい。
(4)その川にはカワニナや魚がいくらでもとれる。
今より暖かかった縄文期、ここは、縄文人にとって、食べ物が豊富で過ごしやすい場所だったのか。この説明板には「それだのに弥生時代になると遺物ないのはなぜだろう」と書かれてるけど、それは、僕が思うに、気候の変化の影響が大きかったでしょうねー。地球規模での寒冷化がこの山中にも襲いかかり、人々は、暮らしやすい平野部へと降りて行った。そして、寒冷化によって大陸からなんかしてきた人たちと合流し、稲作を始める。そんな歴史。
ここで暮らした縄文人は、どっちへ降りていったでしょうね。高い峠を越えて瀬戸内海へ降りていったのか。それとも川沿いに太平洋の方へと降っていったのか。
せっかく人骨が残っているので、DNA調べていたらいいね。この巨岩が石灰岩であることで、下の土壌が酸性にならず、そのお陰で溶けることなく残存した、人骨。
縄文草創期と言えば、佐川の不動ヶ岩屋洞窟遺跡。あそこも石灰岩層の遺跡なので、キチンと発掘調査したら、人骨、たぶん見つかります。そのDNAを分析して、この上黒岩の人骨と比較したら楽しいのにね。
仁淀川の人骨と言えば、河口に近い土佐市の居徳遺跡で、縄文晩期後半の地層から、人為的な損傷痕のある人骨が出土してますよね。さてさて。寒冷化などの影響で、ここ上黒岩岩陰遺跡から移動した人たちの行方やいかに。居徳遺跡の人骨と上黒岩岩陰遺跡の人骨のDNA鑑定が成功したら、その辺のストーリーば見えてくるかも知れないねー、などと妄想している場合ではなくて、高知へモンて来ました。さあ。今日も張り切って仕事仕事!