絶海中津、絶海池、樽見村〔7335〕2023/05/16
2023年5月16日(火)快晴!
よく晴れました。そんなに冷え込みもせず、季節は少しづつ、初夏へ。夜が明けるのも早くなったねー。写真は今朝、4時半前の絶海池。たるみいけ。五台山の北側に広がる淡水池、絶海池。位置付けとしては農業用の溜池、らしい。浦戸湾に流れ込む国分川の汽水域に隣接してるけど、そことは水門で隔絶されてて、淡水を保っている、池。
絶海池は、今昔マップで明治後期の地図を見てみても、ちゃんと存在します。汽水域とは隔絶されて、存在します。池の北側は湿田で、十石舟と呼ばれた田舟が行き交ってたと言いますきに、意識して淡水化されていたのでありましょう。
江戸時代後期に描かれた「浦戸湾風景」という絵巻、あの、はりまや橋の下の地下道壁面に掲げられているあの絵巻を見てみると、池こそ描かれてはないけど田んぼが見え、浦戸湾と隔絶する土手があるので、江戸時代も湿田の為に汽水域とは隔てられるようになっていた、と、想像できます。だから絶海池なのか。中世、足利義満にも信任された禅僧、絶海中津(ぜっかいちゅうしん)が修行したのが五台山(当時は大島)のにちなんで絶海池なのか。どっちが先なのか後なのか。調べてみんといかんと思いつつ、そのままになってますな。いや、調べたらすぐわかりそうなものやけどね。
今、「浦戸湾風景」という絵巻のこと書いたけど、実はとてもよく似た絵巻が3本あります。「自浦戸到幡多倉橋図」と「下町浦戸湾風俗絵巻」と「浦戸湾風景」。で、「自浦戸到幡多倉橋図」では、現在の絶海池のところに「絶海 在前」と書かれてるように、見える。ところが。他の2つの絵巻には「樽見村」と書かれているのであります。まあ、昔は現代と比べて漢字の当て方が厳密ではないから、なんとも言えんけど、樽見村という村が存在したのは事実、らしい。
湿田の為に汽水域から隔絶したので「絶海(たるみ)」となり、そこで修行した禅僧が「絶海(ぜっかい)」を名乗り、いつしか「絶海(たるみ)」は「樽見」となったけど、再び「樽見」は「絶海(たるみ)」となった。のかも、知れない。
いや、全然違う経緯かも、知れません。調べたらすぐわかりそうなものやけどね。
今の月齢は25。有明月。ありあけづき。明け方になっても残っている月を、有明月と呼ぶそう。有明の月が絶海池に映り、夜明けの空に介良三山が浮かび上がる。絶海中津さんも見た、美しい風景。