湿田と潟湖と乾田と穀倉地帯〔7336〕2023/05/17
2023年5月18日(水)晴れ!
昨日ご紹介した絶海池の北側には、高知市でも有数の良田が広がる穀倉地帯。広い広い田んぼには、秋になると一面にコスモスが咲いてて楽しませてくれますよね。あそこ。高知市高須。
今日は、その田んぼの中の道から撮影してみました。スクスクと育つ緑の稲が、美しいね。ここ、戦前から、絶海池を中心に張り巡らされた水路と水を利用した稲作が盛んだったと言います。藩政期から、高知の城下の食糧生産を担ってきたことは、想像できます。
水路を十石舟と呼ばれた田舟が往来し、刈り取った稲を運んだりしていたと言います。いわゆる湿田。日本でも、昭和30年代までは湿田が多く残ってました。藩政期は湿田がポピュラーな田んぼであったと言うけど、僕は詳しくないので、知りません。少なくとも、この場所の田は、湿田だったでしょう。国分川河口の汽水域とは堤で隔てられた淡水池。その水を活用した水田。
こんなページがありました。これは新潟平野の風景やけど、恐らくはこんな風景が、ここにもあったんだと想像されます。腰まで水に浸かりながらの稲刈り。今ではなかなか見ることのない風景やけど、かつては当たり前だった湿田風景。
ネットで検索してみると、北陸地方では、大河川の扇状地、氾濫域での湿田風景がでてきます。輪中とか。水を利用しやすいという利点があった湿田やけど、作業効率はなかなか低そうやね。
新潟県の「新潟」は、信濃川と阿賀野川の間の中洲に新しく形成された潟湖が語源。由来。潟湖。せきこ。外海と切り離された浅い湖、潟湖。海水と隔絶されると、流れ込む川によって塩分が薄められて淡水湖になる、潟湖。そこは、水が豊富で湿田が発達しやすい場所として、稲作が発展したという歴史があるようですね。ここにも、そんな新潟平野と同じ理屈の湿田が広がっていた訳だ。
しかし、稲作の機械化が進み、効率的な農業が発展する中で、湿田からはポンプで水が抜かれて乾田となり、田舟が往来していた水路は道路に作り替えられた、という歴史があるのでしょうか。
新潟平野も、そしてここ高須も、そんな歴史を経ての穀倉地帯となったのでしょうか。
田んぼの中に幟旗が立てられてるので、何かと思うて近寄ってみたら、らくらく散布の農薬の幟旗でした。面白いね。広大な田んぼでも、ラジコンヘリに替わってドローンが使われるようになり、近年益々農業技術は進歩してきました。
単に、ドローンで肥料や農薬を散布する、に留まってないですね。センサー付きカメラで農場全体のCO2濃度などの環境を測定し、生産性を上げていく取り組みも始まっている、と、聞きます。農業のありようは、歴史の中で変化変容し、新しい社会を創り上げていく。