城下町建設前の自然地形を妄想する〔7317〕2023/04/28
2023年4月28日(金)晴れ!
良いお天気。こんな天気がGW中も続いたらいいのにね。
昨日、大鋸屋橋界隈の堀川を撮影、紹介しました。そこで今朝はその場所の歴史について。
あの場所、藩政期初期には、菜園場と陸続きになっていて、堀川ではなかったのでした。堀川は、播磨屋橋の方から流れてきて、横堀に突き当たり、南に流れを変え、鏡川(潮江川)の自然堤防に突き当たって左に曲り、今の東九反田公園あたりで現在の堀川の流路になっていた、と思われるのであります。1644年頃に作成された正保絵図でも、1652年頃に提出された慶安五年絵図にも、そう描かれてます。文章ではわかりにくいねー。これ見てください。この絵図の右下部分。拡大してみると、昨日の写真のあたりは「浅田」。そして、その下が三角形の土地になっていて、三方を堀で囲まれてます。お寺の表示もあるね。
あの場所に、浦戸にあった称名寺さんが移されてきたのは寛永九年のこと。1632年。二代藩主忠義公婦人の菩提寺なので、なかなか重要なお寺さん。その称名寺さんは火災で焼失し、寛文二年(1662年)に筆山の北麓へ移転、その跡地には藩米の蔵が建てられて、幕末近くまで続いたにかありません。
で、その「浅田」。浅田と書かれているくらいで、湿地帯だったその土地には、田んぼが九反しかつくれなかったので九反田という地名になったと言われてますよね。まあ、そんな土地。
そして。貞享三年(1686年)の絵図。その絵図は、土佐藩が幕府に対して城下町の修復を願い出た際に提出されたと思われる絵図。その絵図に、「浅田」の部分を開鑿して堀川の流れを直進させる計画が描かれているのであります。その後に作成された絵図になると堀川は直進しているので、その計画通りに工事が行われたことが、わかるね。従って、昨日の場所が堀川になったのは、その頃だ。
今朝の写真は、この場所から南方向を撮影したもの。左手に高知市文化施設かるぽーとが写ってます。その向こうに九反田公園。1960年代の航空写真はこうで、明治末期の今昔マップは、こう。横堀が、この道路南まであったこと、わかります。今昔マップに、「文」マークがあるけど、あれが第一尋常小学校。高知市のナンバースクールの一番が、ここにありました。
藩政期初期の堀川は、ここを南流し、その第一尋常小学校があった現九反田公園のところで左へと曲がり、東流していたのでしょうか。たぶん、そうだね。
なんで、そんなにカクカク曲がって流れていたのか。それはもう、そういう自然地形だったからでしょう。間違いない。高知の城下町に流れる幾筋もの堀川は、湿地帯に土砂が堆積して陸地が形成されていく過程で流れていた水流をベースにしてつくられたもの。藩政期初期の絵図は、自然地形がどんなだったか、という想像を膨らませてくれるのでした。
それにしても、長宗我部元親や山内一豊が城下町建設する直前の、高知の自然地形ってどんなだったんででしょうかね。誰か、絵に描いてくれてたら良かったのに。そんな無茶な妄想を膨らませてくれる、この風景。
さあ。そんなことより仕事仕事。連休前、いっぱい仕事がありますきんねー。