大鋸屋橋、髙橋、牧野富太郎、槙野万太郎〔7316〕2023/04/27
2023年4月27日(木)快晴!
良いお天気。雲ひとつない、良いお天気の朝。
写真は今朝4時過ぎの堀川。大鋸屋橋界隈。左手、桜の樹の向こうに、改修工事が完了したばかりの高知市文化施設かるぽーと。静かな静かな九反田。
昨日も触れた朝ドラ「らんまん」。こないだ、万太郎が竹雄と一緒に東京へ出かける際、堀川のような場所を小舟で漕ぎ出るシーンがありました。あれは、牧野富太郎が農人町で小舟に乗って、浦戸湾に停泊している汽船に乗りに行く場面だと推察されます。と、言うことは、あれはここだったのではないか、と思った訳ですね。ドラマでは狭い堀川やったけど、実際はもっと広かったんだと妄想します。
で、万太郎が乗った小舟の背景にあった橋は、大鋸屋橋だったんではないだろうか。いや、ドラマなんで史実ではないけど、そういう事実を下書きにしているんではないか、と、妄想する訳ですね。
大鋸屋橋。おがやはし。
実際に牧野富太郎が初めて上京したのは明治14年。手元に、かの河田小龍さんが描いた「高知市街全図」というのがあるけど、その市街図が出版されたのが明治11年。まさに、あの場面の時代の高知市が描かれてて、この橋のところには「オガヤバシ」と書かれています。今も昔も大鋸屋橋。
この西で横堀を北上すると材木町。貯木場があった訳で、必然的に製材屋さんもあり、したがって大鋸屑を商売にする家があったのでありましょう。なので大鋸屋橋。堀川で言えば、最も下流に架かる橋。この橋を抜けると、もうそこは浦戸湾。今は鏡川大橋があるけど、それ以前はこの橋が堀川最下流の橋。
橋の西は堀川と横堀が交差しており、更に西へいくと堀詰。土佐の高知の表玄関がありました。なのでこの橋の下は、毎日毎日、人や物を載せた夥しい舟が行き来していたでしょう。なので、ここに架けられた橋は、アーチ状に、非常に高く架けられていたと推察できます。少しでも大きな舟が通れるように。
なので、藩政期の絵図には「髙橋」と書かれているケースが多い橋。後期になると大鋸屋橋と書かれることが多くなるけど、後期でも「髙橋」と書かれている絵図も、あります。高い高い橋、髙橋。
大鋸屋橋の下は、かるぽーとの所に中央卸売市場があった頃まで、つまり僕が子供の頃まで、毎日毎日多くの舟が往来してました。万太郎が初めて上京した頃のように、農人町で舟に乗って浦戸湾へ漕ぎ出す風景を復活するのが、僕の妄想。高知の街が、いつか再び「水の都」になったらいいね。