浦戸城の石垣と天守台〔7310〕2023/04/21
2023年4月21日(金)晴れ!
昨日も書いたように、浦戸城は、1591年(天正十九年)頃、長宗我部元親が大高坂山の城から移ってきて構築したお城。秀吉から、朝鮮出兵に際しての移転命令があったんではないか、という話。その浦戸城址は、国民宿舎や龍馬記念館などの建設によってほとんどの遺構を見ることはできんなってます。天守台を除いて。
ここは、龍馬記念館前の駐車場。その北側に、こんな看板と石垣、そして「浦戸城」と刻まれた大きな石があります。観光客さんもあまり気にしない、オブジェ。まあ、ここに来る観光客さんは龍馬目当てがほとんどですきんねー。でもここ、中世から近世へ移行する城郭のありようをしっかりと見ることができる、貴重な遺構なのであります。移行の遺構。なんちゃって。
さて。この石垣は、国民宿舎の改築工事の際の発掘で出土した石垣。今朝、出勤途中に撮影してきました。天守台から南東へ延びる尾根裾にあった石垣、らしい。国民宿舎の下になってしまうので、ここに移してきた、らしい。僕は、なんとなく浦戸城の石垣もチャートとイメージしてました。大きな間違い、勘違い。よく考えてみたら、ここは四万十帯ではないか。だから砂岩優勢。チャートは、あまりない。なので、この石垣も砂岩でできてるように見えます。少なくともチャートでは、ない。
つまり、以前書いた、高知城三ノ丸のチャートの石垣の一部に浦戸城の石垣が転用されている、という話は、真っ赤な嘘ということがわかります。ごめんなさい。
で、調べてみると、この浦戸城の石垣の一部に稲生界隈の石灰岩が使用されていて、それが高知城の石垣にも転用されているのではないか、という説はあるみたいです。真相は、知りません。
それはともかく浦戸城。
この石垣の北側は四角く盛り上がっていて、そのてっぺんに城八幡と大山祇神社さんが鎮座。天守台だ。大高坂山のお城には天守台はなかったので、ここで、土佐で始めての天守台が出現したと言われてます。時代の最先端。中世の山城から近世の城郭へ。その過渡期の姿が、ここにありました。移行期の、遺構。なんちゃって。
その石垣の角部分見ても、きちんとした算木積みじゃないですもんね。ここの石垣にも、穴太衆が関わっていると言われてますが、技術は徐々に進歩していっていた、そんな時代感を見て取れるのが、嬉しい。
このように、鬱蒼とした樹々に覆われた天守台。願わくば、この森の木を伐採して、元親や一豊が眺めた風景を取り戻して欲しい。五台山のてっぺんは、樹木が伐採されて眺望が開けました。ここ浦戸城の天守台も、ぜひ、お願いしたいねー。観光客さんも喜ぶと思うし。
そうそう。「高知市史 考古編」には、天守台の斜面部には石垣の石と思われる石材が露出しているところがあって、石垣が残存している可能性もある、と書かれてます。なんという魅力的なお話。こんど、たつくってみよう。