浦戸の城下町〔7309〕2023/04/20
2023年4月20日(木)晴れ
昨日は、高知城三ノ丸の、長宗我部時代の石垣について書きました。岡豊から大高坂山に本拠を移し、かなり本格的な織豊系城郭を築き、城下町も建設していた元親。ところが、数年後には、浦戸城に移ってしまう。この理由は、古来いろいろと言われてきてます。大高坂山周辺が、河川に挟まれていて洪水が頻発した為、とかね。近年の研究では、浦戸へ移ったのは秀吉の朝鮮出兵に対応する為、という説が有力になってきてます。僕も、そう思う。その頃、秀吉の影響力は絶大で、恐らくは秀吉の指示もあったんではなかったでしょうかね。秀吉にとっては、豊かな城下町建設なんてことに興味なく、物資輸送や兵力輸送などが一番の課題だったから。
浦戸の城下町って、狭い。今も、浦戸の街は、山が迫る海沿いの、狭い狭い場所に細長く延びているけど、当時からそうだったんでありましょう。
長宗我部地検帳によりますれば、この浦戸で、稲荷神社より西側、つまり現在の浦戸漁港沿いに、商人が住んでいた模様。以前、浦戸界隈に一向宗門徒とか商人とかが移住していた、みたいな話を書いたけど、その流れでしょうか。浦戸ってのは浦戸湾の出口近くにあって、交易、貿易には都合の良い立地。
で、元親によって城下町が建設され、多くの商人が、住んだ。元親家臣は稲荷神社と桂浜の間界隈に住んだんでしょうか。なかなか難しかったみたいやけどね。
地検帳に戻ると、浦戸港沿いには、「シホヤ源左衛門」とか「アマカ崎与左衛門」とか「アマカサキ孫四郎」とかが住んでます。今の受法寺さんの場所は「道場やしき」。いろんなところから商人が移住してきて、商人の町となってた風景が目に浮かぶ。
そして「米屋介」と書かれている家があります。今朝、撮影したのは、浦戸のお米屋さん。
道路沿いに「飛び出し注意」の看板があります。その右上。「米」の看板。そう。ここは、お米屋さんだったのです。もしかしたら。場所が、地検帳の「米屋介」の場所と似ているので、長宗我部の時代から、お米屋さんだっったのかも知れません。今もお米屋さんだとしたら、すごい。そんな歴史のあるお米屋さん、見たことない。
さて、浦戸。稲荷神社の前の峠を越えて東へ下ると、左手にポンプ場。この界隈が、長宗我部の屋敷だったと推定されているそう。だとすると、家臣団は、ここから桂浜にかけて家を建てたでしょうかね。僕の母の実家は、その向こうにありました。長宗我部屋敷の隣ではないか。ああ。発掘してみたい。
元親によって築かれた浦戸城は、織豊系城郭。昨日一昨日書いた、大高坂山の城の発展系。浦戸城の石垣には、大高坂にはなかった雁木階段がしつらえられるなど、技術の進歩が見られるんだそうです。国民宿舎とか観光施設とかで破壊する前に、調査しときたかったね。
ともあれ、山内氏の世になり、当然のことながらここに新しい城下町を建設するのは土地の制約上無理で、一豊さんは最初っから大高坂山に目をつけていたんだと思う。元親がそうしようとしたように。
ここ浦戸には、南北朝時代から、様々な歴史があったことがわかってます。そんな歴史を掘り起こし、桂浜観光と連動させたら、楽しいね。