三ノ丸の歴史だけでもおもしろい〔7308〕2023/04/19
2023年4月19日(水)晴れ
今朝も美しい高知城。
ここは三ノ丸。石垣改修工事の際に出土した、長宗我部時代の石垣から天守を見上げてみました。右手に広がる平地が三ノ丸で、藩政期、大書院という巨大な建物があり、多くの藩士たちが参集したりするときに使われたと言いますきに、まあ、大講堂みたいなものだったんでしょうかね。
元々、山の斜面にそんな平で広い場所があった訳もなく、元々は地山から突き出したなだらかな尾根だったと想像します。そこに、盛り土で平らな土地を造成した。
ここに写っているのは、長宗我部元親が岡豊から本拠地を大高坂山へ移す際に構築したと思われる石垣。やはりほとんどがチャートで、ところどころに石灰岩という、まあ、高知ではありがちな構成やね。1585年頃から移転を開始してると思われるので、築かれたのはその頃。昨日も書いたように、当時としては最先端技術を駆使した「石の城」。
どうやら天守もあったようなので、下から見上げたら高石垣に囲まれた美しい城だったと妄想できるよね。
発掘では、長宗我部期の石垣の後方盛り土部分から桐紋軒丸瓦が出てきました。これは、四国の城ではここだけ。この瓦、安土城で最初に使われ、聚楽第や大阪城で使用された瓦。1588年、聚楽第で天皇や秀吉、多くの武将が集まり、官位の叙位が行われたとあるけど、その際に秀吉から使用が許可されたと思われるんであります。そしてこの三ノ丸に、その瓦を使用した建物が建てられた、ということ。
ここに元親が城を築いた際、秀吉の影響が大きかったことが、よくわかる。
この山は、南北朝の頃から、大高坂氏が本拠としたことが知られてます。どうやらこの三ノ丸、大高坂氏の頃から城郭の一部として利用されてました。そこに、長宗我部がやってきて、時代最先端の美しい石の城を築き、秀吉から拝領した桐紋軒丸瓦を使った建物を建てる。
山内氏の時代となり、1611年、今見る形の三ノ丸となった。そんな、歴史。
この旧石垣見ると、小さめチャートの乱積み。地山はこの旧石垣のすぐ下にあるので、長宗我部の石垣は、今のような高石垣ではなかったんでありましょう。
戦国末期は、戦争技術の発展とともにどんどんと技術革新が行われていた時代。そんな時代に土佐で始めて築かれた石の城は、その後、浦戸城で進化し、山内家二代藩主忠義公の時代に、ここでひとつの完成形を見たのでした。