高知城の石垣が好き〔7307〕2023/04/18
2023年4月18日(火)薄曇り!
昨日の20周年、たくさんの励ましのお言葉、ありがとうございました。自分の為にもまだまだ続けて参りますので、これからもどうかよろしくお願い申し上げます。
昨日、朝の高知城へ久々に行ってて、高知城の美しさに、改めて感動したのでした。やはり、いいお城。均整のとれた美しい天守。苔むした野面積みの石垣。そういったすべてが醸し出す、全体のバランスがいいよね。いい。そこで今朝も、高知城。
写真は、僕の好きな石垣。高知城三の丸の、石垣。ここの石垣は、1601年の築城開始時から築かれたものの、1650年の豪雨、1707年の南海地震で崩壊して、修理されたとのこと。そして平成の大修理が行われた際には全部石垣が剥がされて、地山が見えてました。2009年、今の姿に修理完成。
どうですか?この、チャートの野面積み。苔むした石の美しさよ。他の部分に比べて少し石が小さいので、浦戸城の石垣を持ってきて積んだという話を以前に書いたけど、その後、それを裏付ける資料はでてきてないので、嘘かも知れません。そう。にっこりひまわりの嘘には気をつけよう。
で、平成の石垣修理の際、現在の石垣の内側、地山の外側に出土したのが長宗我部時代の石垣。1585年(天正十三年)、元親は、岡豊山の城からここ、大高坂山へと本拠を移してきたのでした。そしてここに築かれた城は、土佐で初めての、いわゆる織豊系城郭。それまでの中世の城と違い、高石垣、横堀、礎石建物、枡形などの特徴がある、織豊系城郭。天正期なので、その時代の最先端をゆく築城だったと思われます。
伝説では、元々の三の丸の部分は狭かった為、大高坂山と小高坂山の間にあった「中高坂山」を切り崩した土砂で盛り土して、そこに石垣を築いて三の丸をつくった、という話があります。ただ、平成の石垣修理の際の発掘調査では、地山の斜面を利用して石垣が築かれていることがわかって、中高坂山伝説は、揺らいでいます。真相は、知りません。
長宗我部元親が、ここ大高坂山に本拠を移した理由。それは、秀吉の指示であったとか、交通の便であったとか、色々言われてます。僕は、地形の変化による地政学的な理由だと思ってます。
戦国期まで、現在の高知市中心部は、湿地帯だった。堺町に「国沢城」という城があったけど、これはその名称からも想像できるように、湿地帯の中に築かれた、忍城みたいな城。その後、土砂の堆積と灌漑が進んで、徐々に乾いた土地が現れてくる。すると、その地は、太平洋につながる浦戸湾に面し、河川に挟まれたとても有用な場所となる。そうなると、岡豊よりもずっと、便利。
湿地帯が乾いた土地になってきたことが、地政学に変化をもたらし、元親に移転を決断させたんだ、という想像ができると思うんですね。たぶん、そうだ。
それはともかく高知城。この美しい石垣は、美しい高知城の中でも、僕が一番好きな場所。ここで昇る朝日を見ながら、高知に生まれたことに感謝する、朝。さあ、仕事を始めよう!