「明治日本散策」の伝説検証〔7254〕2023/02/24
2023年2月24日(金)薄曇り
なんだこの写真は、てな感じですが、後で説明します。今朝は東京。昨日のJミルクでの会合はなかなか有意義なもので、勉強になりました。世の中、知らないことだらけ。
さて。明治9年に日本へやって来た、エミール・ギメというフランス人がいます。ギメが、日本滞在中のことを記録し、帰国してから出版した「明治日本散策」という本は、今、角川文庫で僕らも読むことができます。明治9年というと、まだ江戸時代の雰囲気が色濃く残っている時期。面白いねー。日本人は、こういう文章を残してくれてないので、外国人から見た往時の風景描写は、貴重。また、レガメさんという画家を同行させていて、これまた貴重な風景画や人物画を残してくれているのでした。
ある日、ギメは、日本人の案内人とともに上野から芝へと向かっています。人力車で。上野での昼食は、洋食屋さん。上野精養軒のウィキを見ると、明治9年に上野の店を開業しているので、そこだ。開店したばかりの、珍しい洋食屋さんで昼食。で、上野の丘からは、それから向かう芝方面、愛宕神社の石段が見える、と書いてます。なるほど。起伏図で見たらこうだから、平屋の建物しかない当時は見えた訳だ。
で、人力車で芝に着いて、増上寺。そこで、増上寺の縁起について、長い聞き書きをしています。2組のカップルの、悲恋の物語。
恐らくは戦国末期、京に住む高位の貴族、ソノイケの屋敷に、江戸からコレトキという書生がやって来ます。そしてソノイケの美しい娘、ウメガエと、恋に落ちる。身分が違う、許されない恋。ウメガエがそんな悩みを相談したのは、侍女であり友でもあったマツエ。で、マツエは、コレトキの友人書生、オバナと恋仲になる。
江戸の母が病気になったコレトキは、江戸へと帰還。ソノイケは、ウメガエを身分の高い貴族と結婚させることにしたが、ウメガエは嫌でたまらない。コレトキが忘れられない。そんなウメガエを見て、マツエとオバナがウメガエを連れて江戸へと出奔したのでした。ウメガエが居なくなったことにショックを受けたソノイケは、嘆き野中で死んでしまう。
江戸へ着いたウメガエは、コレトキと再開し、素性を隠してコレトキの家族にも可愛がられるが、あるときコレトキの父に、その身分がバレてしまう。ウメガエの父が悲しんで亡くなったということもあり、両家の名誉に泥を塗ったとして激怒、コレトキは勘当されてしまう。
そして。
4人で、「芝付近の丸山へと通じる道を、黙々と辿」り、足元に狭くて深い「西之久保」の谷がある傾斜地で、ウメガエは歌を詠み、崖下の樹海へと身を投げたのでした。急いで崖を降りてみると、絶命したウメガエ。悲嘆に暮れたコレトキは、ウメガエの亡骸とともに父の所へ戻る。父も、丁重に葬儀を行うことに同意した。
その後、マツエとオバナはウメガエが身を投げた場所から近い所に隠遁。コレトキの父がそこに観音様を祀るお堂を建て、マツエとオバナの為に小さな僧院を設けたのでした。その夫婦はそこで長く信仰に生き、その死後にはそれを引き継ぐ僧侶を住まわせたのでした。
その数年後、家康が幕府を開き、この地にやってくる。そこで、小さなお堂の前で祈祷をしている存応という僧侶に出会い、それがきっかけとなって、現在の増上寺につながる寺院が建てられた、という「伝説」。
長くなりましたねー。で、この中に出てくる丸山は、この辺。そして西之久保は、調べてみるとこの界隈だ。今朝は、ウメガエが身を投げた崖がどこなのか、想像してきたのでした。この地形を現地で確認し、それほどの崖があったとすれば、愛宕山の崖か、オランダ大使館のある山ではないか、と、見当をつけた訳です。写真は、オランダ大使館の西側。西之久保からその山を見上げたのが、この写真。
東京の都心に、樹海に身を投げる崖があった、というのも今では想像できんけど、この高低差を見ると、なるほど、と思わされるのでした。
ちなみに、上の伝説、増上寺の縁起はもちろん、どこ探してもネットで探しても見当たりませんでした。存応さんは、出て来ます。不思議な話やねー。明治初期、日本を訪れたフランス人が几帳面に聞き書きした、不思議な伝説。その伝説の地を、今朝、検証してきたのでした。
さあ。今日は千葉方面で、お仕事。頑張って仕事仕事!