物流と中世文明〔7247〕2023/02/17
2023年2月17日(金)晴れ!
ひやいねー。放射冷却。この冷え込みが終わると、一気に春へと向かいそうな気がする2月中旬。そうなったらいいですね。
今、高知新聞で「『発掘された中世の土佐』展に寄せて」という小さな連載が掲載されてます。昨日は、中村の、九条家の荘園と港と貿易の話などが書かれてて、今朝は高岡の中世、川湊、物流のことなど、書いてます。
中村の場合、中世初期、川湊を中心にして栄えたのは、四万十川(渡川)の西、中筋川沿いの平野。川湊がつくられたのは、渡川支流、中筋川沿いで、そこを中心に街ができていったようです。現在の中村中心地が栄えるようになったのは、一條氏の時代になってから。
で、高岡については、仁淀川河口とかにできた川湊が、波介川を通じて平野部と繋がっており、中世高岡の覇者である大平氏などは、その物流を通じた富によって栄えたと考えられるのでした。
なるほど。今朝は、会社の近所、物部川の河口近くで撮影してみました。始発便の準備をする滑走路と、後川河口。後川は、ここで物部川に流れ込み、太平洋とつながっています。
中世、その滑走路沿い界隈で環濠集落や町場が京成され、その中心に守護代屋敷があった、という話は、幾度もこのにっこりで書いてきました。古代、土佐の中心であった国分比江界隈でなく、この土地に守護代屋敷が置かれて細川氏が土佐を支配したのは、この地形に理由があったのでしょうか。
物部川という大河に流れ込む支流沿いの、守護代屋敷。
中村も、高岡も、そして守護代屋敷も、支流が大河に流れ込む辺りに中心が置かれ、栄えた中世。これでわかること。中世という時代は、物流、貿易が重視される時代だった、ということ。
海外との貿易がどんどんと盛んになり、その貿易、水運ルートを押さえることこそが、この国で力を持つ、ということに直結していた時代、なのかも知れない。
などと、高知新聞の連載を読み、この風景を眺めながら妄想したことでした。
ただ、そういった場所は、水害に見舞われやすい、という考察は、こないだやりました。大平氏の蓮池も、中村も、すぐ近くに高台があって避難できる、場所。ところがここは、逃げ場がないように、見える。広い広い扇状地なので。でも、大丈夫。当時は、この写真の右手、管制塔の手前に、標高30m近い山がありました。室岡山。室岡山やけど、地元では「命山」と呼ばれていた山があり、この界隈の人々の命を水害から守ってくれていたのでした。と、ここで、昨日のにっこりに、つながるのであります。