上岡山は、命山〔7212〕2023/01/13
2023年1月13日(金)曇り
暖かい朝になりました。真冬とは思えんような、暖かさ。ここは久々の、上岡八幡宮さん。
物部川東岸、標高34.3mの上岡山に鎮座まします上岡八幡宮さん。夜明け前の八幡様は、静かに静かに鎮座しておりました。以前には一晩中灯っていた、拝殿の電球も、今朝は点いてなくて真っ暗。真っ暗な山の麓に真っ暗にたたずむ神社で、お参りしてきました。日本人としては、なんか、神様、感じますよね。
写真は上岡八幡宮参道入り口。この辺。大きなクロガネモチの樹がランドマーク。その手前に、幾度かご紹介した安政南海地震津波の碑。安政南海地震では、この西の物部川河原まで津波が遡上してきたことを伝える碑。
その手前。以前にはなかった、避難場所指示標識。この向こうの上岡山が津波避難場所であることを書いた、指示標識。こういったものはどんどんと整備されてきました。上岡山への避難路も、いち早く整備されたし。
上岡八幡宮さんには、結構古いものが残っています。社殿下の石段には文政十四年(1817年)の年号が刻まれていたり、石灯籠には文化九年(1812年)と刻まれていたり。200年の時を超えて、この八幡様への地域の人たちの思いが、伝わってくるのであります。
八幡信仰が広がってから、ここは八幡様になったのでありましょう。その前は、恐らくは物部氏によって物部氏の神様が祀られていたと思われます。その証拠となる伝説については、幾度か書いてきました。
では、その前は。
物部氏の神様がやってくる前も、この地域に暮らす人々は、この山に神の存在を感じていたのでしょうか。おそらく、そう。僕が弥生人だとして、現在の空港滑走路北西端界隈の集落で暮らしていたとすると、朝日の昇る方向を挟んで、北に上岡山、南に室岡山という双子の山が見えていれば、もう、それは神の山と考えるのが、当然だから。
そして室岡山が「命山」と呼ばれたように、この上岡山も、洪水や津波から住民を守ってくれる「命山」であったことも、間違いないですね。人々の命を助けてくれる、神の山。
田村の弥生集落は、その竪穴式住居跡の数から、日本でも有数の規模を誇る弥生集落と言われます。弥生初期から末期までの長期間存続した集落。
しかしその間、幾度か、南海地震津波に襲われていると思われます。特に、岡村先生のおっしゃる、2000年ほど前に発生した地震津波は、宝永地震津波を上回る巨大なものだった、と言います。その時、田村の弥生集落はどうなったのか。その後も集落が存続した理由は。
1.津波は、集落を壊滅させるほどのものではなかった
2.壊滅させるほどの規模であり、住居などは壊滅したが、人々は命山などへ避難しており、集落を再興した。
3.集落は壊滅したが、その後、他地域の人々がやってきて集落を再興した。
この3つのパターンが妄想できますね。真相は、わからない。文字記録を残すことができなかった弥生時代、大地震が発生すると大津波がやってくる、という情報がどの程度共有されていたのか、わからない。だから避難できなかったのかも知れません。できたのかも、知れません。
今は、有難いことに、たくさんの情報があります。この「津波避難場所」標識に従い、大地震発生時は、この山へ逃げられます。上岡山は、命山。