6年振りの、牛島〔7208〕2023/01/09
2023年1月9日(月)晴れ!
成人の日。高知市では昨日式典をやってて、桟橋通りはなかなか華やかなことになってました。成人式かー。もう、40年前。あれから、世の中は随分と変わりました。地方での人口減少や高齢化は、ちょっと、抜き差しならないしね。
ここは、牛島。前回、この瀬戸内海の美しい島にやって来たのは6年前。2017年3月のことでした。あの時の島の住民は、島で会ったおんちゃんの話で、9人。かつて。江戸時代中期から後期にかけて、海運の島として栄えたという、牛島。豪商丸尾一族が本拠とした、牛島。
昭和になってからも、小学校があり、多くの人が暮らしていた牛島も、今は昔。今日、最初にお会いした島の女性によると、今もそんなに人口は変わってない、とのこと。たぶん、8名。
で、今日は、畑仕事とかされておられる、仕事中の島民の方を5名見かけました。つまり全島民の過半数に出会うことができた訳で、皆さん、なかなかの働き者だ。
さて。塩飽諸島の中でも小さい方から数えた方が早い牛島で、なんでこの小島が栄えたのか。恐らくは、瀬戸内海の海流と関係があるんでしょうが、海流のことは素人なので、地質から考察してみました。地理院地図で、シームレス地質図を見ると、こう。瀬戸内海の小島ってのは、ほとんどが花崗岩でできた島であること、わかります。ところがこの牛島、花崗岩よりも泥質片岩の方が優勢なのでした。で、起伏がある。それにより、湧き水が豊富だったことが、想像できます。花崗岩だと水が抜けてしまうけど、泥質片岩なら湧き水が、出る。で、田んぼもできるし、大きな人口を抱えても大丈夫なほどの、水があった。
というのは僕の妄想やけど、あながち大外れでもないような気もするけど、まあ、どうでもいいです。
以前にも書いたけど、塩飽諸島が形成されたのは、300万年前にフィリピン海プレートが西へと動き始めたことによると言われてます。西進によるシワシワが、塩飽諸島。その事件がなければ、塩飽諸島はできず、ここに豪商が生まれることもなく、そして僕が島の一日を楽しみに来ることもなかった訳だ。訳です。
6年前に来たときは、極楽寺の鐘撞堂をご紹介してます。あの界隈の風景は、6年前のまんま。廃屋が並ぶ、里浦集落。そこから南へ丘を越えると、もうひとつ集落があります。ゲストハウスもありますね。港でお会いしたのは、そのゲストハウスの女性でした。
そこに、自転車で大きな柑橘を運んできた近所のおじさん。そのおじさんに、前回お参りした「池神社」さんの場所を尋ねたところ、なんと、「神社はもうない」とのお返事。なんとなんと、前回お参りした後、大雨による地滑りで、建物が全部土砂に押し流されてしまったんだそう。上に書いたように、水に恵まれた島であることの、裏表でしょうかねー。
神社への道は、藪だらけやけど、今の季節なら行けるかも知れんとおっしゃるので、薮漕いで行ってきました。この写真のように、鬱蒼とした藪の中に鳥居と石灯籠だけがのこっていました。栄えに栄えた島の神社も、冬枯れの藪の中に埋もれておりました。
しかし、牛島。働き者が住む、美しい島。
島の集会所に、前回にはなかった「写真展」がありました。昭和の頃の島の写真。運動会や、学校の卒号写真などなど、ここにたくさんの人が暮らしていた時代を偲ぶことができます。
また来たいなー、と思わせてくれる、美しい島、牛島。