豚太郎要法寺店がありました〔7165〕2022/11/27
2022年11月27日(日)晴れ!
良いお天気の日曜日。夜明け前の空には、冬の星座、春の星座が瞬いています。昨日、車を堺町に置いてたので、今朝は、自転車で堺町。と、申しますか要法寺町。堺町という名前は古くて、藩政期初期、泉州堺の呉服商がやってきて商売を営んだことに始まる町名。そして要法寺町という名前も古くて、山内一豊さんが土佐へ入国してきた際に、山内家菩提寺日蓮宗要法寺をここに置いたことに始まる町名。藩政期初期の絵図を見ると、載ってます。
しかしその要法寺さん、1687年に火災で焼失し、筆山の麓の現在地に移転となった訳やけど、その後も要法寺町という名前は、ついこないだまで使われていたのでした。本当についこないだまでね。300年間も。
この角に、豚太郎ができたのは、僕が小学生の頃。豚太郎要法寺店という名前だった。南与力町に住んでいた僕は、よく、家族と一緒に食べにきたのでした。当時、高知ではとても珍しかったみそラーメン。と、申しますか、豚太郎がチェーン展開始めるまで、高知でラーメンと言えば中華そばで、塩ラーメン、しょうゆラーメン、みそラーメンというメニューがいかに画期的であったかは、当時のことを知る人にしかわかるまい。
以前にも書いたけど、同じ頃、追手筋に札幌ラーメンとかなんとかいうラーメン屋さんができて、そこにも味噌ラーメンとかがあって、画期的でした。
いや、よく思い出してみよう。そう。今でこそ「ラーメン屋さん」というのは当たり前で、あっちにもこっちにも、○○系とかなんとか、とにかくいっぱいどっさり存在するけど、そもそも「ラーメン屋さん」というのは、屋台以外では、無かったような気がする。どうでしょうか。ラーメンは、普通の食堂で食べるものだった。中華そばとして。家の近所の百万食堂にはスープがうどんのスープで、それにラーメンの麺を入れた「日華そば」というのがありました。赤岡の「中日」と同じやね。あれは、食堂でうどんとか中華そばとかを提供していたので、当然のように存在するメニューだったと思う。
最近は、コッテリ系のラーメンより中華そば。昔ながらの中華そばが、身体に沁みるようになりました。屋台ラーメンの系譜である「ひろし食堂」とかね。土佐市の「田原食堂」の中華は絶品だし、窪川の「椿食堂」の風味は堪らない。でも、宝永町の電車通り沿いにある小さな居酒屋さんの、金曜と土曜しか作らないというラーメンは別格。普段は奥さんが料理をつくる居酒屋さんやけど、ラーメンだけはご主人が作ります。
いかん。朝っぱらからラーメン、食べたくなってしまった。この角に来ると、豚太郎要法寺店を思い出し、条件反射でラーメンが食べたくなるのでした。
お天気の良い日曜日。どっかに出掛けて、ラーメン食べたい。